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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2021.12.16

純真さと怒り

アスペルガーの方と話をしていて,厳しい怒りを内に秘めた方にしばしば会います。なぜそうなのでしょう?そうなる理由について私が感じていることを書いてみたいと思います。

 

子どもでも激しく怒るのだけど,何を怒っているのかわからなくて周囲が困惑する,という場合もありますよね。でも実際は理由もなく起こっているわけではなく,その子なりに何か理由があるんだけど,それをこちらが理解できていない,ということがよくあります。子ども自身ももやもやするだけではっきりとは表現できなかったりするのでますますです。

ではそもそも怒りって何だろう,ということから考えてみると,何かの意味で「こうなるのが当然だ」と思えることについて「そうならない」とき,人は怒りを持つのだろうと思います。

たとえば自分を受け入れてほしいし,受け入れてくれるのが当然だと思っているとき,受け入れてもらえなければ怒りが湧いてくる。みんながもらえていて,当然自分にももらえるべきだと思うのに,それをもらえないときに怒りが湧いてくる。普通こんなひどい扱いを受けるべきではない,と思えるときにそういう扱いを受けると怒りが湧いてくる。相手が自分の思い通りになるべき人だと思っているときに,そうならないと怒りが湧いてくる。
人間関係の中で湧いてくる怒りには,たとえばそんなものがあるでしょう。まだいろいろありそうですけど。でもそれは人間が原因でないときにも起こります。

たとえば知恵の輪をやっていて,それには「正解」があるので,自分にも外せるはずだ,と思って頑張ってもどうやっても外せないときに腹が立ってくる。そういえば,机の上に鉛筆を置いて,それで置けたと思っていたのに,置き方が悪くてころがって下に落ちてしまったときに怒っていた子もいました。別に誰が悪いわけでもなく,自分の置き方が悪かっただけなんですが,鉛筆に腹を立てたりする。

つまり「こうなるはずだ」とか「こうなるべきだ」と思っていることが「裏切られた」とき,人は怒りを持つということかと思います。そして「こうなるはずだ」とか「こうなるべきだ」というのは,「常識」と言い換えられるかもしれません。
では常識というのは何かというと,「皆がそうあることが当然として共有している理解の仕方」と言えるでしょうか。たとえば挨拶をされたら挨拶を返すのが「常識」です。トイレから出たら手を洗うのが「常識」。恩を受けたら返すのが「常識」。歩くときは右足と左足を順番に出すのも「常識」。

もちろん人はその「常識」から外れることがあります。そしてそれは「非常識」と言って非難されるでしょう。その「非常識」が過ぎると,周囲のみんなの怒りを呼んで非難され,あるいは攻撃されるでしょう。周囲の人からすれば,その「非常識」な人は「こうするのが当然」と思えることをしないから,そこで怒りが生まれるからです。

人はある程度「常識」を共有しているから,お互いにコミュニケーションもスムーズに進み,大きな問題もなく,そんなにいつも腹を立てる必要もなく,生きていくことができます。「常識」はそういう意味で,お互いの関係をスムーズに進めるための調整を行っているものと言うことができます。たまさか「非常識」な人があれば,周りから非難されて修正を迫られるか,それがうまくいかなければ排除されることにもなります。

さて,ここで難しいことが起こります。お互いに「常識」を共有している人の間ではそれでなんとかコミュニケーションがうまく進みます。そしてお互いに理解し合っている感じになります。ところがその「常識」が共有されない場合,言い換えると,お互いに違う「常識」を持っている場合はどうでしょうか。

「常識」というのは,「相手も当然そう考え,そうふるまうのが当たり前だ」と思っていることでもあります。だから相手がそうしなければ怒りが湧いてきます。ところが相手は相手で別のやり方で考え,ふるまうのが当たり前と思っていた場合,当然相手はその「常識」とは違う「非常識」なことをしますので,怒りの対象になるわけです。

そして悲劇的なことに,今度は相手の人からみれば,「非常識」なのはこちらの側なのであって,こちらこそ怒りの対象として責められなければならない人なのだ,ということになる。

そうやってお互いに自分は「常識」を持っていて,相手が「非常識」だと怒りを持つことになる。もし「常識」が共有されていれば,相手が「非常識」な振る舞いをしたときにそれを非難すれば,相手も納得できます。ところが相手の方こそが「非常識」と思っている人が,自分のことを逆に「非常識」と非難してこられたとすれば,これは怒りの油に火を注ぐ結果になります。お互いにそういう状態になる。もう冷静に考えるなど難しい状態です。

文化が違うと,この「常識」が違います。すぐに目に見える違い,たとえば正式な服装とか,挨拶の仕方,食事のマナーなどであれば,「ああ,あの人たちの<礼儀>は私たちと違うんだな」とわりと簡単に理解しやすいですが,人に対してどういう気遣いの仕方をしたらいいか,問題が起こった時にどういう解決の仕方をしたらいいか,といった人間関係の機微にかかわるような「常識」については,かなり深刻なところでずれていて,しかもお互いにその違いに気づかないことがむしろ普通です。そうなると,お互いに「なんか相手の態度はへんだな」と思いながらコミュニケーションがつづきますし,「非常識なへんなやつなのかな」とか思うことになり,それがひどくなると激しい対立にもなります。

こういう文化によって異なる「常識」というのは,自分がふだん生きている周囲の人たちとはだいたい共有されていますから,その人にとっては正しい常識だという確信が日々積み重なって強まっても行きます。その意味で安心して暮らせます。だから,異文化と出合わない限りは,自分が生きている社会の中ではそれほど怒りを持たずに過ごせることも多い。

ところがアスペルガーの人はその時点で困難に直面します。特性の違いで,周囲の人たちと目の付け所,感じ方,考え方にズレが起こるのですが,お互いにその違いに気づかないまま「なんか変だ」という感覚に悩まされながら育っていきます。療育支援の現場では,友達関係などでトラブルが生じやすい子どもに「常識」を教えるような形のSST(ソーシャルスキルトレーニング)をやっていることが多いですが,アスペルガー系の子は理解力はあるので,頭では割と早く理解するようになります。

でも実際の場面ではうまくいかないことが多い。なぜなら理解された内容自体が,目の付け所の違いなどの結果,ずれてしまっているからです。つまりその子の立場に立って言えば,「常識」を教えられてその通りにふるまっているのに,それがぜんぜん実際にはうまくいかないということが起こります。場合によって教えられた「常識」は嘘なんだという思いにもなるかもしれません。

 

定型の側はちゃんと「常識」を教えているし,その子も一応理解したと思えるのに,実際の場面ではぜんぜんその常識が使えずにまた非常識になってしまう,ということでどうしてそうなるのかもわからず,どうしていいかもわからずに困ってしまいます。

こういうすれ違いの重なりによって,お互いにつかれてしまう,ということが起こります。そしてお互いに「相手の期待に応えようとする」とか「相手がうまく行動できるようにする」ために努力しているつもりなのに,逆の結果になることで場合によって怒りが生まれてくる。

そういう状態になった時,一般的には立場が強いのは定型のほうなので,だいたいはアスペルガーの子の方が「悪い」ということになります。でも子どもの方からすれば,「言われたとおりにやっている」「一生懸命頑張っている」のにそれが認められず,効果も得られないどころか「悪い」と見られてしまうことにショックを受けることになります。それがたまると,言いようのない怒りから自分でもわけもわからず攻撃的になったり,激しく落ち込んでしまったりもする。

アスペルガーの少なからぬ人々が,そんなつらい状況の中で一生懸命生きてきて,やがてその一部の人たちは大人になって「なんで自分(たち)はこんなひどい扱いを受けなければならないのか」ということに憤りを持つようにもなります。

実際,世の中は子どもたちが教えられた理屈通りには全然動いていないことが多いわけです。「嘘をついてはいけません」と教えられてそう思っても,世の中嘘だらけです。「人を傷つけてはいけません」と言われてそう思っても,自分自身が理解されずに周りから激しく傷つけられることの繰り返しで,世の中人を傷つける話がどこにでも普通にあります。

私自身は自閉的な傾向は少ない方だと思っているのですが,そのせいなのか,年齢を重ねるほどに世の中も自分もそんなものだ,と思って生きているところがあります。だからそういう理屈に合わないようなことも,お互いの「常識」のズレが関係してそうだと思ってみたり,なんとか折り合いをつける方法を考えたりして,ある意味いい加減に生きるわけです。

でもアスペルガーの人の怒りに向き合ってみて,そこでアスペルガーの人に感じるのが「純真さ」とでもいえることです。その驚くような素直さによって傷つき,憤りを抱えて苦しまれている。

自閉的な生き方,ということを考えてアスペルガーの人との関係を模索するとき,この「純真さ」ということに目をしっかり向けなければ大事なことが見失われてしまうんだ,というのが最近強く思うことでした。

 

 

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