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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2021.12.22

子どももおっさんもyoutubeにはまる(1)危うさと可能性と

事例研修などでよく出てくる話の一つに,子どもがyoutubeにものすごくはまっている,という話があります。

その話が出てくるときは,どちらかというと「youtubeばっかり見て,勉強しない」みたいな,「困ったこと」として語られることが多いように思います。

youtubeの世界にはまることにはいろんな「心配」が考えられます。たとえば,youtubeの動画には決して「教育的」でないものもあって,無防備な子どもがそんなものに晒されたら大変だという心配。

うその内容やいい加減な内容などもたくさんあって,「正しい理解」ができなくなってしまうのは困るという心配。

将来はユーチューバーになってお金を稼ぎたいなどと言う子もあって,「現実的な生き方」ができなくなってしまうという心配。

その他いろいろな心配。

そういわれるとまあそういうことは確かに心配でもあるよな,と思っていたのですが,私自身もだんだんyoutubeをいろいろと見るようになって,自分でも動画を作成してアップしたりもしています。視聴数は全然伸びないですが(‘◇’)ゞ

で,見てみると確かにひどい内容もたくさんあります。以前なら決して許されなかったような差別的な主張を含む内容のもの,単なる思い込みによる主張,嘘をおりまぜた話など,それをまともに信じてしまったらほんとに危険というものも目につきます。これはVRの世界でも同じことですが,ある意味「無法地帯」という面があります。

なんでそういうことが起こるかというと,それは「中間」がなくなったからだと思っています。

どういう意味かというと,以前からそういういい加減な話はどこにでもあったし,個人レベルや身近な人とのやりとりではいくらでも語られたり共有されたりしてきたことでしょう。ただ,それがより広い人にそのまま広がることはなかった。なぜなら家の中では親が,会社の中では上司が,学校では先輩や先生が,などなど,その「未熟」な話が拡がる前にチェックして調整する「中間」が生きていたからです。世の中に広まるにはそういう「中間」がたくさん介在して,あまりにおかしな話がそのまま広がることには一定ブレーキがかかっていました。

ところがネット社会になってその中間が失われていきます。個人がそう思ったら,個人がそう言いたかったら,何のチェックもなく全世界にそれをダイレクトに主張することができる,極端に言えばそういう世界が広がりました。

 

この話を少し具体的にイメージしていただくには,こんな例がいいかもしれません。

しばらく前ですが,ある有名な簡易食品に異物が混ざっていたと言う事で,かなり長いことその食品の製造が一切停止してしまい,(私も含めて)その食品を全国どこでも食べられないという事態になったことがありました。なぜそうなったかというと,歩道などで見る限りでは,ある一人の消費者がその異物の入った写真をツイートして,それが瞬く間に全国に広がったからでした。

もちろん食品について異物が入っていることなど,そういうミスは決していいことではありませんが,完全になくすことは事実上不可能でしょう。だからどんなに気を付けても,その危険を減らすことはできても,どうしても失敗する例は出てきます。そして失敗が見つかったら,そこで原因を究明して再発しないように工夫を重ねていき,危険を減らしていく,というのが現実的な対応です。

もちろん意図的に混入したとか,それが人の生命にかかわるような重大な問題だと言う事であれば,たとえ一度のことでもすぐに全国に情報が伝わって,対策が練られることも必要になったりするでしょう。でも問題がそれほどは深刻でない場合は,かなりの部分はまず当事者間や監督する立場の行政などがかかわってその中で調整すれば済むことであったりします。

つまり,問題が起こったときに,当事者や当事者間の関係を調整する立場の人や機関など,ローカルな中間的な仕組みが働いて,その中で問題が解決されていったことになります。そしてそこでどうしても解決がつかない時,だんだんと問題が拡がっていって,場合によって全国規模の問題になっていく。

そういういくつもの中間段階があって,そして一つの問題が「おおごと」になっていく。それが今までの社会の秩序の在り方でした。もちろんその中で実際には「隠ぺい」みたいなことも起こるわけですし,問題もありますが,しかし「問題の深刻さに合わせた適切な対処」を行うという妥当な部分もありました。

ところがこの食品の異物混入の話では,(私から見ると)それほど深刻でも悪質とも思えないような比較的小さな「ミス」に思えることについて,たとえば会社に報告して対応を求める,といったような中間的な対応をすっ飛ばすような形でいきなり「告発」が行われ,それが全国に広がって操業停止に追い込まれるという大ごとになりました。

たぶんツイートしたご本人も多分知り合いにぶつぶつ言う程度の感覚でやったことで,まさかそんな大ごとになるとは想像もしなかったのではないかなと思えるんです。

こういう問題を柔らかく調整していく働きも持つ「中間」がなくなることで問題が極端になる,といった激しい揺れ方はネット社会になることでいろんなところで起こっています。

 

ネットという新しい技術を使って作られるそういう新しい世界の仕組みが急速に広がることで,今までの安定した秩序の作り方やむき出しの個人がぶつかり合うことを防ぐためのさまざまなクッションが失われ,「無法地帯」「暴力的な世界」が浮かび上がってきているわけです。

それがこれまでの秩序の仕組み,人間関係の作り方の仕組みに慣れてきた大人から見て,子どもがその新しい世界に巻き込まれてしまって大事な物を失ってしまうのではないかと心配になる基本的な仕組みではないかと思っています。

 

その心配はやはり当然とも思えるのですが,ただその面だけで見ると,新しい世界が切り開きつつある新しい可能性も見失ってしまうことになります。そしてその新しい世界はこれまでは実現できなかったような新しい魅力を次々に生み出していくものでもあります。そこで新しい生き方が生まれていく。

子どもたちは敏感ですから,そういう新しい魅力に取りつかれているのでしょう。それは「古い」大人との間では決して得られなかった世界です。だから,それを求めようとする力は決してなくなることはなく,止めようとして止まるものではなく,結局それと上手に付き合っていく道を作っていくしか方法がないものだ,と私は考えています。

これから何回か,そんな問題についてぼちぼち考えてみようかなと思っています。

 

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