2022.01.06
メタバースと発達障がい(2)多様化する基準の世界
前回はメタバースという新しいヴァーチャルな世界の性格について,いくつか思いつくことを書いてみました。
まとめてポイントだけ言えば「距離や境界を超える「ネット」という媒体や物理的空間の性質を超える「仮想現実」という場,そしてその中で身体を超え,旧来のアイデンティティを超えて活動する「アバター」という主体があらゆる種類の活動を展開するようになる。」ということになるかと思います。
そしてそれは旧来のいろんな制約,たとえば(いわゆる)リアルな物の世界が持つ物理的な制約や,物をやり取りしながら生きている人間社会の規範という社会的な制約(心理的には倫理観などの制約)からかなり自由な世界がそこに生まれることになります。当然そのことが「無法地帯」を生むといった危険な結果もあるわけです。
ではそういうメタバースの社会には全然制約がないのでしょうか?すべて何でもありなんでしょうか?
国家がそれらをすべて管理しようとするような可能性の問題についてはとりあえず置いておいて,基本的にかなり自由に展開するメタバースの世界について考えてみたいと思います。
一番基本的なことから考えてみると,いくら自由な世界と言っても,XRの技術が持つ限界は当然あります。これは一種の物理的な制約とも言えます。また人間が利用可能なエネルギー資源などには当然限界がありますから,メタバースの世界もエネルギーを必要とする以上,その限界があります。
そこで人はアバターで活動するわけですが,いくらアバターを自由に使うと言っても,そのアバターを動かしているのは生身の身体を持つ人なわけですから,そういうアバターを動かす人間の生理的・身体的な制約も当然あります。たとえば24時間そこで活動することは通常不可能です。眠くなるし,おなかもすくし,トイレにもいかなければなりません。
生身の身体はご飯を食べる必要がありますが,アバターがヴァーチャルな食べ物をいくらゲットしても,少しもおなかは膨れません。どうしても現実のご飯を食べる必要がありますが,それは(いわゆる)現実の世界でしか実行できません。言葉というヴァーチャルなツールでたとえて言えば,りんごを食べればおなかが膨れますが,「リンゴ」という言葉をいくら唱えてもおなかが膨れはしないのと同じです。
ご飯は私たちの社会では基本的にはお金を払って買うしかありませんから,どこかでお金を稼ぐ必要があります。仕事自体はメタバースの世界を使って行うことができるようになっていきますが,そこで稼いだお金は,(いわゆる)現実世界の中で現物であるご飯に交換し,生身の体で食べるしかありません。
次世代を生み育て,あるいは前の世代の面倒を見る,といったことも人間が生きている限りこれからもなくなることはまず考えにくいですが,それも生身の身体があって初めて可能なことで,(いわゆる)現実世界で成立することです。アバターでは自由にパーソナリティーを切り替えたり,リセットできたとしても,その現実の世界で生身の人との間ではそういうことはできません。
アバターは自分がだれかということを隠して人とかかわることが可能ですが,しかしそのアバターがメタバースの中で経済活動を行う場合,「お金を稼ぐ」必要から,どこかでそのアバターと自分とをつなぐ仕組みを作らなければ,せっかく稼いだお金が自分のものとならず,またそこで商品の取引をしたとすれば,あいてにそれを送り届けるために,相手がどこのだれかを何らかの形で特定できなければ商売も成り立ちません。
人が結局は生身の身体をもって生きている限り,そういう(いわゆる)リアルな現実世界が持っているいろんな制約から自由になることは不可能です。結局生きているのは生身の身体である以上,メタバースの世界はどこかでそこにつながらなければそもそも成立し得ないわけです。では社会的な規範についてはどうでしょうか。
商売には信用が必要です。買おうとしている商品がちゃんとしたものであること,売り手はちゃんとそれを自分のところに届けてくれること,また買い手は代金をしっかりと払うことについて,お互いの間に信頼関係とか信用がなければ売買は成り立ちません。お金もその素材(紙とか金属とか,あるいは電子的なデータとか)自体には金額に見合った価値はないのにそれが価値があるかのようにやり取りできるのは,お金に対する信用があるからです。信用がなければ貨幣価値は暴落します。
だから物々交換のような世界にならない限りは,お金の信用をどこかで担保する仕組みが不可欠です。そういう仕組みを壊してはならない,という社会的な制約が絶対に必要になります。
また,メタバースの世界に入るには今のところはゴーグルとか機種によってはパソコンなども必要ですし,ネット環境も手に入れられなければなりません。そのために必要な個人的な資源(お金)や社会的な資源(ネット環境など)も最低限は必要になります。それらの条件を確保できる人は世界でもやはり限られますので,そういう点で「社会的階層の差」とか「ITにおける南北問題」が改めて深刻化していく可能性も,大きな制約として考えておくべきでしょう。
もっとベーシックなことで言えば,そもそも言葉を使ったコミュニケーションは,その言葉の意味はこういうことである,ということについてお互いに理解が共有されているという信用がなければ成り立ちません。たとえば「明日は雪が降る」という言葉は「明後日は台風だ」という意味ではない,ということがお互いに理解できていなければコミュニケーションが成り立ちませんし,また相手は嘘をついているのではない,という意味の信用も必要になります。(言葉に信用が必要なのは,それ自体が「現物」ではなくて「ヴァーチャルなツール」の一つだからで,いくらでもそれで嘘をつけるものだからです)
メタバース上のコミュニケーションでは相手を激しく攻撃する人も出てきますが,しかしそういう人からはほかの人は遠ざかっていくので,そこに安定した関係は作れないし,リアルな世界でのように固定的な上下関係をそんな形で維持するのも難しくなります。そうすると,メタバース上で安定して活躍しようと思えば,「相手に気遣う」といったことも必要になり,そういうレベルでの「社会的な規範」も一定程度は不可欠です。そこにローカルな形で必ず何らかのルールも発生していきます。
そのほかにもいろいろありそうですが,改めてシンプルに言えば,身体を持った人間がメタバースを使う以上,メタバースの世界はその中でかなり自由であったとしても,(いわゆる)現実の世界と全く切り離されて成立することは不可能であり,その中で成立する人と人とのコミュニケーションや活動は(いわゆる)現実の世界との関係でかならず何らかの制約がかかってくることになります。あるいは,人間の世界というのは昔から常にヴァーチャルな世界とリアルな世界のセットで成り立っていて,それはメタバースの世界でも全く同じだと言えます。
というわけで,メタバースの世界はこれまでの社会に通用してきたいろいろな制約を崩していくということになりますが,同時にその世界を作り,そこで活動するのが結局は生身の人間である以上,必ずその中で生きていくための様々な新しい制約が生まれ続けていくことは確実です。もちろんその移行段階ではたくさんの混乱が予想されるとしても,いずれはある程度までは安定することになります。
というところでようやく発達障がいの問題を考えるところまで来ました。
ここでは「障がい」という概念を,その社会で標準とされ,社会的に活動するときに必要と考えられている基準を何らかの面でクリアしておらず,そのためその社会の中で生きていくには特別の支援が必要とされると社会的に理解されている状態,といった感じで考えておきます。
さて,そうすると障がいを考える上で,この「標準」とか「基準」とは何なのかを考える必要が出てきます。身体障がいであれば自分で身体の状態(体温とか姿勢とか)を維持できて,社会的に要求される体の動きを人の援助を必要としないで実行できる,というのが基準で,それが一定以上に困難になれば障がい者とされるでしょう。
発達障がいであれば,その社会で要求される能力の発達過程を平均以上にたどれることが基準で,何らかの器質的・機能的原因(主に中枢性の問題と考えられていますが)でそれがうまく獲得できず,社会的な活動で一定以上の困難を抱えるため,支援が必要と考えられる場合に障がい者とされるでしょう。
もしそうだとすれば,メタバースの世界では次のようなことが大きなポイントになってきます。つまりメタバースの世界ではユニバースの世界に比べてこれから圧倒的に多様な世界が作られていくことになります。多様な世界ということは,それぞれの世界の中で「標準」とか「基準」とされることもまた多様になるということです。
今までの世界でも,たとえば農民として生きていくのに大事な力に関する「基準」と,商人としての「基準」,警察官としての「基準」,研究者としての「基準」などはそれぞれ全く違います。それぞれの「役割」に応じた「基準」があります。それと同じようにメタバースのそれぞれのワールドではワールドごとの基準が作られ,しかもこれまでの「役割」などのレベルをはるかに超えて,人がかなり自由にそれらの間を移動していくことになります。
ですから,たとえばネットの登場で,寝たきりの身体障がい者もパソコンが使えればそれで仕事ができたりするようになったり,引きこもりの人もネット上で経済活動を展開する可能性が出てきたり,いろいろ新しい生き方が現れてきたわけですが,メタバースの世界ではさらにその人の持つ特性が活かされるようなワールド,その特性をむしろ積極的な基準とするような世界が作られていくことにもなります。
そうすると,ユニバースの世界では一律に「障がい者」とみなされた人は,その世界では別に障がい者ではなくなります。障がいの概念も,「その人の特性」という見方ではなく,「ある世界との相性の悪さ」の問題という見方にシフトしていくでしょう。そして同じ人が「Aの世界では障がい状態」だが「Bの世界ではエリート」みたいなことも,現在の世界をはるかに超えるレベルで普通に起こっていくことになります。
もちろんそういう変化は一挙に起こるのではなく,いろいろな混乱とその中での試行錯誤の中で時間をかけてだんだん具体的な形を表してある程度安定していくことになりますが,もしそうだとすれば(おそらくこれはほぼ間違いないことのように私には思えます),発達障がい問題へのこれからの取り組みとは,そういうメタバース的な,多基準的な世界の中でそれぞれの特性を活かした活躍の仕方を模索していくことと切り離すことはできないはずだ,と思えます。
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
投稿はありません