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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2022.12.15

発達障がい児事業所の役割を社会学的に考えてみる

先日暴漢に襲われた社会学者の宮台さんが襲撃される直前にたまたま「【宮台真司が語るテロの構造】トマス・ホッブズから考える自力救済と暴力/テロの根源にある「自己中心的な考え」/お祭りと日本社会/「会社が楽しい」は良いことか/安藤優子氏と議論」という対談動画を撮っていて,本人の意思に基づいて襲撃後にそれが公開されています。

いつもながら話はクリアで,この問題についてもとてもわかりやすく分析をしているんですが,その話はほとんどそのまま発達障がい児がなぜ二次障がいになりやすいのか,発達障がい児の支援事業所の一番大事な社会的役割はなんなのか,ということをある意味単純な形でわかりやすく説明してくれるものになっています。

宮台さんの中心的なテーマの一つは人の幸福の条件を社会学的に考えることにあるようです。発達障がい児の支援も同じです。いろいろ困難な状況下で苦しむことが多い発達障がい児が,少しでもその子らしく幸福に生きられるようになること。そのために支援をするわけですよね。

こんな当たり前のことですが,研修などで私が支援スタッフの皆さんにそれを強調して話すと,いい意味で驚かれることがよくあって,なにか新鮮な気持ちがよみがえるようなんです。なぜそうなってしまうかというと,普段は支援の目的を「できないことをできるようにする」とか「困った行動を矯正する」,「学校で要求されることに添った行動ができるようにする」みたいな,本来の目的から言えば枝葉末節のことにばかり目を向けさせられてしまう状況があるからでしょう。だから根本をつい見うしなってしまう。

もともと定義上も発達障がい児というのは,定型発達児が「普通にできること」がなかなかできないという「特性」を持って生まれているわけですから,この世の中で生きる為にはどうしても定型社会にお付き合いしなければならない部分はあるにしても,「定型になること」を目指すような対応をされ続けたらいつまでたっても自分の本当の姿を肯定的に見ることができず,自分を否定しながら「かりそめの自分(定型的な自分)」を「目指すべき本当の自分」のように信じ込まされて苦しみ続けることになる。

その仕組みはとてもシンプルなことなんですが,そんな単純なことがみごとに見過ごされてるわけです。だから改めて「少しでもその子らしく幸福に生きられるように」という,これもとても単純な目標を言われると,見過ごしていたことに気づいて新鮮な感覚になるのでしょう。

なぜテロが起こるのか,ということいついてのホッブスという昔の哲学者の議論を使った宮台さんの説明も基本は単純です。以下少しホッブスを超えた私の説明も入れてしまいますが,人は人と闘いながら生きる。類人猿の群れの進化のプロセスを見ても,群れ内部での個体間の闘いは非常に厳しいものがあります。チンパンジーなどはα雄(ボス)の地位をめぐり,反乱が起こってどちらかが瀕死の重傷を負う(または死ぬ)ということもときどき起こる。ヒトになっても壮絶な殺し合いの歴史が繰り返されていることはだれも否定できません。ホッブス流に言えば「万人の万人に対する闘争」という話になるでしょう。

でも同時に人は人と協力するという仕組みを発展させてきたことももうひとつの歴史的な事実で,その裏には系統発生的な進化の歴史があります。協力は目先の個人的な利益にしばられていては成り立ちません。たとえ自分が損をしても,ほかの人のために行動する。そういう関係をお互いに保つことで協力関係が維持されていきます。

極端な例で「刎頚之友」という言い方がありますが,これは自分にとって大事な友人が自分の首(命)をくれ,と言えば,有無を言わずに命を差し出すような関係を言い,友情の極致のように言われる言葉です。個人にとって最大の財産は命と言えるでしょうから,それをも相手のために用いる,という関係は協力し合う関係の一番重いものだということになります。

もっと素朴な例を言えば,親は子の命が危なくなれば,自分の命を投げ出して子どもを守ろうとする,ということはそれほど特異なこととは感じられないでしょう。もちろんそうでない親もあるでしょうが,そういう親が多いとは思えるはずです。

個人の直接の利益だけを考えたら,こういうのは実にばかばかしい行動になるのですが(金魚なんて自分が生んだ卵を餌にして食べてしまいますし),しかし究極的にはそのような姿勢によって人は強力な協力関係を作り,または維持するんですね。それがあって,これだけ複雑な社会を協力関係を基盤に作れていることになります。

けれども,もし友が単にその人の利益のためだけに自分を利用しているのだとすると,この関係は崩れます。というより,そういう疑いが起こった段階で協力関係は崩壊していきます。そして自分が相手のために自己犠牲を払ったとしても,相手がそれに応えてくれるかどうかは理屈の上では保証の限りではなく,いつでも裏切られる可能性があるわけです。にもかかわらずそれを行わせるのは,「相手に対する信頼」ということになります。

その意味で,ある社会がまとまりを持っていられるのは,その中には相手を倒そうとする闘いも繰り返されながらも,同時にそれを超える形で全体としてはお互いの間に信用あるいは信頼関係が成り立っているからです。そのような信頼によって,闘いは抑制されます。

ホッブスの話に戻ると,ある社会に生きる人がその社会の中では暴力を使わなくなっていくのは,国家といった仕組みに暴力的な対応の部分をあずけてしまい,自分は平和な関係の中で日常生活を送り,平穏に経済活動を行い続ける工夫を作り上げたからです。これも戦争になれば経済活動が混乱すること,犯罪という暴力が起これば日常生活が破壊されることを考えればすぐにわかるでしょう。その暴力的な部分を担っているのが警察であり,軍隊だということになります。

つまりそこにあるのは「(万人の万人に対する)暴力」から「国家を信頼し,そこに暴力を預け,その中でお互いに信頼し合って平和に生きる」というしくみだというわけですね。

ということは,この信頼が崩れると,また人は暴力的に問題を解決するしかなくなる,というわけです。

今の社会で個人テロが横行するのは,自分の困難な状況に手を差し伸べてくれる人,少なくとも一緒に悲しんでくれる人がいなくなってきているからです。誰も自分を守ってくれない状態の中で,あとは自分で自分を守るしかなくなる。あるいは自分を迫害する人々に対して暴力的に報復するしかなくなる。最近の政治家に対するテロはその典型的なものだ,ということになります。そこには「社会」に対する絶望的な不信感があるわけです。

自力救済が強調される状態というのは,人が人を助けてくれなくなった状態です。人に助けを求めても助けてくれないから,自分で闘って生き延びるしかないわけです。世界もそうですが,今の日本も少なくとも100年に一度以上の大転換期にあって,人々の間の助け合いの精神が危機に瀕しています。その結果,社会から見捨てられた思いを持ち,孤立して苦しむ人々の一部が自己防衛と報復の暴力に訴えるようになる。

日本ではいじめられる子どもたちが周囲の子どもから見捨てられ,だれも助けてくれなかったという悲しい体験をする子が少なくないようです。そういう体験から人を信じることができなくなります。いじめはどの社会にもありますが,「友達なのに助けてくれない」という状態はかなり今の日本に特徴的に見え,海外の友人はその例を知ってとても驚きます。なぜそれで友達と言えるのか?と。

 

自傷や他害がひどくなる発達障がい児の事例,言い換えると二次障がいがひどい状態になっている子どもの事例を見ると,結局その子は周囲に理解されず,助けてもらえず,攻撃され続け,なにも信頼できない状況の中で自己防衛するしかなくなる,自力救済に走るしかなくなる姿に見えます。そうなってしまうのは,その子が何に苦しみ,何を訴えているのかを周囲の人が理解するのがむつかしいからということが基本にあります。だから周囲はそれを「行動障害」などと名付けて,その子自身のせいにして矯正しようとすることにもなります。

けれども,たとえば自閉当事者の大内雅登さんの話などを聞いていると,その子がどうしてそんな苦しい思いになるのかがわかるときがあります。理由はあるんです。ただ私がそれを理解する能力が乏しいだけなんです。実際大内さんはわかったりするわけですから,これは間違いありません。

周囲が理解してくれない,訴えても助けてくれない。そういう状況に苦しんで暴力的になるしかなくなる。このしくみは宮台さんが説明するテロの成立の仕組みと全く同じだということになります。

 

けれども,全国の発達障がい児支援の教室を回っていると,そういう厳しい状況に置かれて苦しんでいた子どもが,しばらくしてとても明るくなって喜んで教室に通ってくる例にたくさん出会います。すごいなと思いました。でも考えてみると理由は簡単なんです。園や学校,場合によっては家庭の中でさえ否定的な目で見られ続け,自分を肯定できなくて苦しんでいる発達障がい児が,教室の中では認めてもらえているからです。一緒に楽しんでもらえるからです。自分が生き生きできる居場所がそこにできるからです。それこそが幸せの足場でしょう。

少し理屈っぽく言えば,こういう教室は家族のような親密さの共同体(ゲマインシャフト)ではなく,かといって会社組織のような利益共同体(ゲゼルシャフト)でもなく,また国家のような政治的共同体でもない。ある意味そのどれでもない中間的な性格を持つ共同性の場です。そのような共同性の場の中で,だれにも認めてもらえず,だれにも苦しさを共有してもらえず,だれにも助けてもらえない絶望感の中で育っていく子どもたちに,一緒に生きていく可能性を感じさせてくれる場を提供すること,それがこういう障がい児支援の教室がその子に対しても,その子のことで苦しんでいる保護者の方に対しても,ひいては社会に対しても果たすべき一番大きな役割なのだろうと思えます。

※ 宮台さんの話は多岐にわたっていて,この問題を考えるうえでさらに祭りが持つ意味についての社会学や文化人類学が追及してきた重要な機能の話がありますし,そこも大事なポイントなのですが,そのことについてはまた改めて。

 

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