2023.10.04
型にはまらない表現者:ルソーとセザンヌと自閉
人が人に何かを表現する手段としてはことばがあります。このブログももちろんそういう手段によっています。けれどもことばで表せるものは限られています。ことば以上に豊かに何かを表現する手段に音楽や絵画などの芸術があります。自閉など,発達障がいの傾向を強く持つ人も,型にはまったことばではない世界に自分の表現を切り開き,それによって他の人とつながる道を見出す人たちもいます。
日本でもたとえば石村嘉成さんという自閉の方が,なんとも豊かな動物絵画の世界を展開して多くの人に共感されています。よろしければ以下のサイトを覗いてみてください。かなり面白いです。
発達障がい者であるかどうかはさておくとしても,型にはまらない独特の見方やそれに対応した表現の仕方で近代の絵画の世界に大きな転換をもたらした画家として,アンリ・ルソーやポール・セザンヌがいます。私はその方面は全然素人ですが,登録者数が50万人以上にもなるYoutubeの「山田五郎 オトナの教養講座」によく取り上げられて,その解説が実に面白いのです。
両者ともにピカソなど現代絵画を切り開いた多くの画家に若い頃に強烈な影響を与えた画家のようなのですが,共通項として山田さんが強調するのは「へたくそ」ということです(笑)。セザンヌの紹介動画のタイトルも【現代絵画の父】セザンヌのリンゴはなぜ落ちない?【実は〇〇っぴ】で,もうはっきり「へたっぴ」と表現されています。
へたくそというのは,「うまい」という基準にあてはまらないことです。発達障がい者が定型発達者の基準に当てはまらないために障がい者(定型的な生き方が下手な人)と言われるのと同じです。ルソーもセザンヌも伝統的な西洋絵画の基準での「うまさ」にあてはまらない(適応できない)画家で,でもそのことで表現をしないのではなくて,逆にそれとは違う自分の基準を前面に押し出して新しい絵画の世界を切り開いたことになります。
山田さんの面白い解説によると,たとえばルソーは遠近感がでたらめです。自分が関心を持つ人物(偉大だと思っている人など)は巨大に描く。それは背景に全然見合いません。人の絵をかいても写真と見比べても全然似てない。それでモデルになった人から抗議され,分かったと「納得」して描き直しても,関係のない足元の絵を描き直すだけだったり。子どもも全然子どもらしく描かれません。ただ,どうも彼自身にとってはそれがよく似ていると感じられるもののようです。
セザンヌはやはり構図がうまく作れず,描かれた物の遠近感も大きさの関係もかなり「へたっぴ」になります。それは「わざと崩している」のではなく,頑張って描いてそうなるようです。でも彼はある意味「居直って」そういう表現を堂々と展開していった。
両者によって無視された(というか,そもそも身につかなかった)表現技法の重要なポイントは透視画法など,西洋近代絵画が追及してきた基本的な世界の表現の仕方です。その表現の仕方は,世界をある固定した一点から正確に模写する,という理想を持っていますが,実はこれ,自然科学の発展ととても関係の深い展開のように思えます。
少し理屈っぽい話になりますが,私たちはみんなひとりひとりものの見方感じ方が違います。だから同じものを見ても同じように見えているわけではありません。また自分がいる場所が変われば,同じものを見ても違う面が見えます。つまり,見え方は常にその人のその時の「主観的な見方」になっているわけです。
その同じものについて,他の人と見方がずれるとうまくコミュニケーションが成り立たず,共同作業もうまく進みません。最近,相手をやり込めようという言い方に「それはあなたの主観でしょう?」という言葉が使われたりするみたいですが,もともと人は主観で語るしかないわけで,「それはあなたの主観でしょう?」という言い方もその人の主観的な見方以外ではありません。
そうやってそれぞれが勝手に主観的な見方をしていては,それだけでは「同じ世界」を上手く共有できなくなってしまいます。だから人は自分の主観を超えた「客観」的な世界を求めざるを得ないわけです。
そこで自然科学やそれに基づく技術が追及した一つの方法が,「主観を固定する」というやり方だったのですね。同じものを見ても見る場所によって,つまりは主観によって見え方が違う。だから見る場所を固定して,そこから見たらみんな同じに見えるでしょう?という形を作り上げるわけです。
私も心理学の基礎を学ぶときにさんざん訓練されましたが,実験系の実証論文では「手続き」を正確に記述することがとても大事になります。どのように条件を設定し,どのように観察し,どのポイントをデータとして記録するのか,そして得られたデータをどのように処理するのか。そういった実験の一連の流れを可能な限り精確に記述するのです。
この時の精確さはどういう視点から判断されるかというと,そのような条件設定をしっかりすれば,誰がやっても同じ結果が得られるということです。実証系の研究ではこの「再現可能性」が非常に重要になり,だから「追試」がよく行われるわけですね。つまり,その論文で主張されていることは,ある特別な人の主観にだけ観察された話じゃなくて,条件さえ整えれば誰にでも確認できるものだということになる。
だれでも確認できるものなので,「客観的」と言われるわけです。これが自然科学系の個々の主観を超えた「客観的な世界」についての基本的なアイディアになります。
というところで,「主観を固定する」というアイディアが,絵画における透視画法などの遠近法にも見られるわけです。そうするとその絵は「客観的に世界を描いた」ことになる。そしてそのような世界の見方や表現の仕方が,つまりは近代社会の自然科学をひとつの理想とした世界観に一致していくわけです。
ルソーやセザンヌは,その近代社会の中で非常に重視されてきたそういう世界観に基づく表現を,堂々と否定したことになります。つまり,彼は自分の主観に現れたものを,そのままそこに表現するわけです。そしてたとえば自分にとって重要な人物を見れば,その印象をキャンバスにそのまま大きく描き,どちらでもいいようなものは小さく添え書きする。テーブルを見た時の見え方と,今度は視点を変えてりんごに注目したときの見え方はそれぞれ違うわけですが,それらを「正確」に配置することもなく,それぞれについて見えたままに描く。だから遠近法が崩れる。
少し言い方を変えると,これは自分の中にある「いろんな視点」から見られたものを,無理に一つの視点からのものに押し込むことなく「(自分にとって)ありのままに」一枚の絵の中にひとつひとついろんな視点から描き込んでいくわけです。これがピカソなどの新しい若い世代の画家にとっては衝撃的だったわけですね。
ということで,一つの視点から見たものだけを描くのが絵だ,とういのはおかしいんじゃない?別にいろんな視点からの見方を絵の中に同時に入れ込んだっていいじゃない,という発想が出てきます。それがつまりはキュビズムの世界にもなるわけです。
【キュビスムって何?】始まりはピカソじゃなかった!?「キュビスム展」コラボ企画
山田さんがルソーやセザンヌをキュビズムの嚆矢のように見るのも,多分そういうことでしょう。そしてそれは近代社会の世界観を超えた別の世界観を導き出すひとつの表現法となっていくわけです。
と,前振りがいつものように長くなりましたが,とくに自閉的な人がえがく絵画の中に,似たようなことが起こっているように思えたりするんですね。
実際の例はたとえば「自閉症 絵」という検索用語でググってみればたくさん見ることができます。
その中でいうとこの絵も典型的なように感じるのですが
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=178531&pid=672618
ほんとにたくさんの人が遠近法関係なくびっしりと描かれています。それは「客観的な状況」を描いているわけではなく,輪島貫太さんの主観に合われたいろんな人たちを豊かに表現しているもので,その豊かな世界が見ているこちらにも伝わってくる感じがします。
実はこの遠近法に関係なく自分に見えたものをそのまま描くというのは,近代以前の社会では当たり前のことでもありました。それこそラスコーの洞窟画でも別に遠近法など関係なく,自分の印象の大きさでいろんなものを壁に描き込んでいます。そこには「たくさんの視点」が詰め込まれていて,その意味で近代社会が追及してきた「唯一の世界」ではない,「多様な世界」の表現です。
近代社会のこれまでの原理が世界的に限界に来ているときに,改めてこの「いろんな視点を持ったもの同士が作り上げる多様な世界」の探求がとても大きな課題になっていて,人々がそれを求め続けている。ルソーやセザンヌがそういうものを求め始めた人たちに訴える力を持ったように,自閉的な人が描く絵画も,そういう多様な世界への扉になっているのではないかと,そんなことを感じます。
はつけんラボでは「はつけんミュージアム」というコーナーを作って,発達障がいの子どもたちの作品を展示しています。まだ数は少ないですが,いろんな人に面白い作品を投稿してもらって,そこにありきたりの「唯一の世界」を超えた「多様な世界」が表現されていくといいなと思っています。
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
投稿はありません