2023.12.08
講演で当事者視点の大切さの共有
昨日、新潟県長岡市のこどもサポート教室の主催で「発達支援講演会」が開かれ、「早期の発達障がい児支援で大事なこと:二次障がいを防ぐ」というタイトルで70分ほどの講演を行ってきました。
発達障がい児の保護者の方、各種の支援機関のスタッフの皆さん、小学校の校長先生、支援校の先生やサポート教室のスタッフの皆さんなど、70名程度の方に対して私たちが追及している「当事者視点を踏まえた対話的支援」の大切さについて、その意味と具体的な例をいろいろお話したのですが、寄せられた感想を読ませていただく限り、そのことの意義を受け止めてくださったかたがとても多かったように思えます。一部ご紹介したく思います。
「本人が『何を考えているかわからない』ではなく、本人の視点を理解しようとすることが大切ということがわかりました。もっと本人によりそっていきたいと思いました。」(保護者)
「当事者視点とその深い詳細について知りたいことがすべてわかった講演会と感じました。お医者さんに聞きにくいこと、その対処も知られたのが良かった」(保護者)
「とてもわかりやすかった。山本先生の熱意が伝わってきた。当事者の理解に努力し続けたいと思った」(支援スタッフ)
「当事者がどう考えているかという視点での内容がよかったです。逆SSTにとても興味がでました。」(保護者)
「わかりやすくお話をされてもらいよかったです。支援を必要な子、お母さんに寄り添っていきたいと思いました。」(支援スタッフ)
「動画などもありわかりやすかった。不安な部分もあったが、少し楽になった」(支援スタッフ)
「成人の自閉症の方々とかかわる機会が多く、その際に自信のなさを感じることが多かった。学生時代や幼少期の話を聞く中で、理解されない経験が多かったと伺い、今回の講演会に重なると感じた。事例をもとにより具体的に理解できてよかったです。」(相談支援事業所)
「『自閉者が定型者の気持ちを理解できない以上に、定型者は自閉者の気持ちを理解できていない』というお話から、とても多くの気づきをいただきました。大変貴重なお話をありがとうございました。」(保護者)
「定型発達の子どもと発達障がいの子どもの大きなズレや、理解を深めること、 共に理解しあうことについて学ぶことができ、とても充実した時間になりました」(学生)
これまで発達障がい児についての多くの説明の仕方では、「奇声」「こだわり」「自己コントロールのなさ」「共感性のなさ」「自己中心的」「他者理解困難」……。いろんなマイナスの言葉でその「特性」が語られ、その子の「問題」としてとらえられてきました。
実際、重い自閉の子の支援をしようとして、話しかけたり一緒に遊ぼうとして、全く無視されたり拒否されたりした方なら、そこでどうしたらいいか途方に暮れた経験をお持ちでしょう。なぜそうなるのか、この子が何を考えているのか、自分の常識では皆目見当がつかない。そして想像もできないその子のことを、そんなマイナスの言葉で理解するしかなくなるのです。
講演のパワポから
「常識」では理解できなくなったとき、それを「説明」して「納得」する手段の一つが「脳に原因を求める」というやりかたになります。「脳に違いがあるんだからわからなくて当然」と思えるからですね。
障がいの有無にかかわらず、人の行動がすべて脳(神経系)に関係していること自体は改めて言うまでもなく当たり前のことです。行動のしかたに違いがあれば、それは当然に脳の働き方に違いがある。でも問題はその先なのです。
たとえば親子関係の葛藤で苦しむ子どもに、「おまえの脳がノルアドレナリンやドーパミンを大量に放出しているからそうなるんだ」と説明してあげたとして、それで何かが解決されるでしょうか?もちろんそんなことはあるわけがありません。問題はその葛藤の中身なわけですから。
そして私たち人間は、そういう心理的な葛藤を「ことば」や「身振り」「表情」などを通して人に表現したり、また自分自身で理解したりします。そういう相手に対してなんとかしてあげたいと思ったとき、やはり「ことば」や「身振り」「表情」などによって働きかけ、相手を理解し、葛藤を解決する道を探そうとします。多くの悩みがそうやって共有され、また解決していきます。
それはとても普通のことです。おぎゃーと生まれたあと、だれもがそういうやり取りの中で成長していきます。そしてそういうやり取りの成長は、同時に脳の成長でもあるというだけのことです。
もちろん脳の性質の違いによって、その成長の仕方に違いも出てきますし、そのことと表裏の問題としてふるまい方にも違いが出てくるのも当然です。男と女もそうですね。障がいがあろうがなかろうが、その点は何も変わりません。そして男と女は脳が違うから、という理由でお互いを理解することをあきらめることはないでしょう。違いながらもなんとか理解に近づこうと努力をするはずです。
でも、特に「コミュ障」といわれる自閉の子の場合は、残念なことにずれの大きさのせいで理解をあきらめられることが多いのです。そしてそれは「脳が違うから」で納得されてしまいやすくなります。
その時にすっかりと忘れ去られることは何かというと、一見訳の分からないように思える、何の意味もないように思えるそのふるまいには、その子なりの「意味」があり、その子の「思い」がそこにこもっているのだということです。
一見わけがわからないように思える自閉的な子の振る舞いに、その子なりの思いが込められていること、ただその表現の仕方が定型的なやりかたから大きくずれてしまうことが多いために、周囲から理解されなくて苦しんでいるのだということ。今回の講演でもそのことを具体例を通してお話ししていきました。そういう説明への感想が、上にあげたようなものになるわけです。
私の場合は大内雅登さんをはじめ、何人もの自閉系の方たちとの対話の中で、ほんとに理解不能だったそのふるまいの意味について、驚くほどたくさんのことを学ばせてもらいました。それは決して理解不能ではないのです。大変ではあっても、少しずつではあっても、「ああそういう思いでそうされているのか」ということがわかってくることを私は実感しています。
定型であれ、非定型であれ(いろんな言い方がされますが、発達障がいというまとめ方については日本独特のまとめかたですね。DSMにもICDにもそういうぴったりの分類はありません)、それぞれ違う体を持って違う環境条件の中で生まれ、自分の思いを作り上げて生きています。そして人とかかわりを持っていきます。その中で喜びを感じたり、悲しみを感じたり、希望を持ったり絶望したりする。そんな当たり前のことが往々にして忘れられているように感じるのですが、そのことも障がいの有無に関係なく同じです。
当事者視点を大事にするということは、違いがあってお互いにわかりにくいそういう相手の「思い」に向き合う努力を続けることでもあります。そこから、お互いの間に生まれる葛藤を「同じ人間同士として」少しでも軽減していく努力をすることです。
その努力が単なる絵空事ではなく、きれいごとでもなく、少しずつでも開けてくる可能性を、今回の講演での私の話からも多少なりとも感じ取っていただけたように思い、それが私にはまた新しい希望の一つとなりました。
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