2024.04.08
「カサンドラ現象」論
「自閉症を語りなおす:当事者・支援者・研究者の対話」(新曜社)を読んで、図書新聞に書評を書いてくださった立命館大学の髙木美歩さんから、一昨年出版された本にお書きになった「「カサンドラ現象」論――それぞれに「異質」な私たちの間に橋を架けること」をご紹介いただき、早速読ませていただきました。
カサンドラ現象というのは、アスペルガーと定型発達の夫婦(比率は夫がアスペルガーであることが多い)に起こる深刻な問題をめぐる社会的な動きのことです。
そして定型発達の側(妻であることが多い)が関係がうまくいかないことに悩み苦しみ、しかもなかなかその苦しみを周囲に理解してもらえない状況の中で、さまざまに重篤な「症状」を示すようになるのだという理解で、「カサンドラ症候群」という名前がつけられたりもしています。つまり「原因はアスペルガーの側にある」ということを前提にした「症状名」になっています。
実際、定型の妻が自分の感情を夫に共有してもらえないことが続くことで鬱や希死念慮、自殺などに至るケースもあり、「カサンドラ症候群」に悩む方たちの自助グループができたりもして、一種の社会現象となっています。社会学者である髙木さんが「カサンドラ症候群」ではなく、「カサンドラ現象」という言葉を使われている理由の一つがそういう社会現象としてこの問題を考えようとされているからでしょう。
ということで、「カサンドラ症候群」という見方は、主に定型発達の視点を中心に作られた理解の仕方ですが、公平に考えるには、とうぜんそこでアスペルガーの方がそこで何を感じ、何を悩んでいるのか、ということについても考える必要があります。髙木さんの文章はその両方の視点からの議論を社会学的な視点から整理して、「それぞれに「異質」な私たちの間に橋を架ける」道を模索されています。
もう少し説明を加えると、こんな感じで話が進んでいます。
最初にAS(アスペルガー)のパートナーに苦しめられていると感じるNT(定型発達)の人たちに生じる「症状」やそれにかかわるさまざまな出来事につけられた「カサンドラ現象」について、そのNTのパートナーの苦しみを、カサンドラ現象に関わるNT側の人たちがどんなふうに解釈して訴えてきたのかの説明があります。
次にその考え方に対して逆にNT優位の社会から苦しめられてきたASの方たちが、どんなふうにその見方の問題を指摘して訴えてきたかの説明があり、さらに社会学者のアンソニー・ギデンスが近代の家族関係の性質を論じた話を参考に、そういう近代的な家族関係が広まる中で「カサンドラ現象」というものが社会的に生み出されてきたのだという説明をされます。
そうすると「カサンドラ現象」は社会の変化の中で生み出された「現象」と理解できるので、改めて両者の関係を組み立てなおしていく可能性があることにもなります。ということで、最後はその可能性を探るという形で終わっています。
拝見していて、この展開は、アスペルガーという問題に多少なりともかかわりを持ちつつ考えてきた私自身の思考の展開の道筋にもほとんどそのまま沿うような感じがしました。
私は自己認識としてはNT側だと感じているのですが、そうするとASの方たちとのかかわりで傷つくことがあるんですね。それで、周囲の人たちも似たようなことを感じていたりするので、「悪いのは相手だ」という形で自分の傷ついた気持ちを支えようとするわけです。
ところがASの方たちと対話を続ける中で、逆にASの方たちがどれほど傷つけられてきているのかということに気付かざるを得なくなります。そして自分自身が無自覚に傷つける立場に立っていたことにもだんだんと気づくようになってきます。
私が特に大内雅登さんとの対話の中で、かなり衝撃を受け続けたことの一つが、大内さんがどれほど周囲の人たちのことを本人なりの視点で一生懸命考えてふるまいを決められているかということでした。ただ、その「気遣い」の視点がずれるので、それを周囲が「気遣い」と気づかず、単に「変なこだわり」とか「頑固さ」、「常同性」みたいな理解をされてしまうことにも気づかされます。それはある意味で、私を含めてNT側が相手がなぜそうするのかについて、共感的に理解できずにとまどうから、そういう言葉で「客観的な感じがする定義に包み込んでとりあえず自分を支えようとしている」のだということもわかってきます。
支援の現場でも自閉的な子どもたちはだいたいそういう視点で「アセスメント」されることが多いです。私自身も学生時代に障がい児支援の現場に関わるようになった時もそうだったように、そうしないとそれまでの自分の常識では対応できない子どもの振る舞いにどう対処していいか分からなくなってしまい、また何を目指して支援するのかも見えなくなってしまうからなんだろうと思います。
その結果、障がい児にときどきあることですが、そうやって外から当てはめられた枠に、どこか違和感を感じて納得いかないまでもなんとか適応しようと苦労し続けることにもなります。実際はその枠は定型の子にとっては自分の特性に合ったものなので、そんなに苦労なく身につくのですが、自閉の子はそこが分からずにすごく苦労しつつ、けれども周りがみんなそうしているので「きっとみんな同じような苦労をして我慢してやっているのだろう。だから自分も我慢しなければならないんだ」と自分を納得させたりもします。
もちろん多くの支援者も、一生懸命子どものことを理解したいと努力を続け、自分の常識から外れたふるまいに対しても、なんとか肯定的に受け止めようと「忍耐強く」努力されていて、その気持ちは子どもにも伝わることが少なくないですし、すごいなあと思うのですが、でもその支援者の「好意」も定型的な視点からの好意になるので、どうしても限界が出てきます。
ところが支援者としての大内さんの活躍を見ていると、そういう定型的な視点からの支援の限界を、軽々と超えてしまうすごいことが起こるので、びっくりしてしまうんです。大内さんは定型的には理解がむつかしかったり、困った行動とみられるふるまいに子どもの気遣いや言葉にならない葛藤など、さまざまな思いをすっと読み取られ、子ども自身の意味の世界に添ってやり取りされるんですね。だから「自分が理解された」と感じられることで、その子のふるまいが全く変わってくる。
お話を聞いている限りのことですが、ほんとに劇的にかわるのです。普段周囲に受け止めてもらえない思いを理解されることってこんなにすごい可能性を拓くことなのかといつも感嘆させられます。その変化を見た保護者の方もびっくりされて、大内さんに学ぼうとされることが多いようです。
そうやってどちらの側から見ても相手から傷つけられていて、どちらの側からも相手を理解できていないという意味で、「お互い様」の世界がそこにあるのだという視点から自閉=定型間の葛藤をどうとらえなおしたらいいのかという問題に向き合うことになります。その問題を視野に入れたこれからの支援の在り方については、「当事者視点を踏まえた対話的関係調整としての支援」みたいな感じで模索しているところです。
というふうに、自分の個人的な体験の経緯と、また別の場所で同種の現象に向き合ってこられた高木さんの議論がすっと重なって見えてくることで、自分の感じてきたことはたんなる偏った「思い込み」ではなく、ある種の「客観性」をもってそこにあるし、だからこそ、みんなで考えていく意味があることなんだという感じがしてきます。
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