2024.06.15
傷つける悲しみ
前回の「自閉と定型の『傷つけあい』」では、どちらかというと自閉の方の発言が往々にして定型を傷つけることがあるということについて書きました。
今回はそういう状況が自閉の方にとってはどう感じられているかということについてです。
私自身が典型的だなと思うのですが、自分が傷つけられたと感じるとき、相手の傷が見えなくなります。たとえ見えたとしても「自分の傷に比べれば大したことはない」と思ってしまいます。そして、相手の人のことを「人の痛みが分からない人だ」と理解してしまいがちです。「痛みを無視して平気でいる」と見えてしまうこともあります。
自閉の人との関係では、そういうことが頻繁に起こっています。カサンドラ症候群と言われる状態は、まさにその典型的なものでしょう。実際そういう状態に陥った定型のパートナーは重いうつ状態になったり、死の危機に直面したりすることもあり、ほんとうに深刻です。
けれども、自閉的な方との対話的な関係が深まっていくと、その自分の理解がどんどん崩れていくことを感じるのです。以下は前回ご紹介した「障がいと物語」の授業での自閉系のKさんの発言を巡る葛藤場面に対する、ある自閉系の若い女性の参加者からいただいた感想の一部分です。みなさんはここから何を感じられるでしょうか?
…(前略)… Kさんがおっしゃっておられました、自分はいない方がよい等のお言葉を聞いて、自分の経験で思い出したことです。自分の話で恐縮なのですが… 私は、自分の言ったこと・したことが、相手にとって傷つくことだったということに、自分自身も強く衝撃を受け、落ち込み、傷つくというのを今まで繰り返し何度も何度も経験してきました。自分の加害性、相手に与える負の影響を自覚したとき、その度に、”自分はいない方がいい”、”周囲と関わらない方がいい”、”おとなしくしていた方がいい”、という気持ちに陥りました。
誰か(相手)が傷ついてほしくないし、嫌な思いをしてほしくありません…誰も嫌な思いをしないためには、自分がいなくなった方がいい(どれだけ配慮したつもりでも、意図せず自分は相手を傷つけてしまい、それは避けられないことと感じています)。誰かが傷つくのは辛いです。自分のせいで人が傷つくとなれば、自分自身も耐えがたいことで、大変ショックなことです。
Kさんのお気持ちと違っていたら申し訳ないながら、Kさんの会話を拝聴する中で、Kさんは他者から強烈な攻撃(それこそ、彫刻刀の話で出てきたような悪意ある言葉など)を受ける分にはある意味寛容さがあるというか、一方で、自分が衝撃を与えてしまうのはKさん自身も傷つくというような、やさしいところがある人なのかなと思ったりもしました。
Kさんから生じる感想やそこから発言なさる内容もみんな、Kさんの立場になれば(Kさんの人生に立てば)きっと当たり前で、そうした感想が出てきたり言葉を言うのも当然のことなのだろうなと想像しています。また、どんな感想も意味があるものだと思っています。
(Kさんの前提を理解するには、Kさんのことをまだ十分に知りませんため、Kさんのご負担でなければ、またいつかKさん自身の人生史といいますか、前提となるお話もお聞きできたらいいなぁと思いました) …(後略)…
私は自分にはとても及ばないほどのやさしさと、そのやさしさのゆえに感じてしまうどうしようもない悲しみを感じました。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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