2024.06.12
自閉と定型の「傷つけあい」
自閉系の方が「人を傷つけることを繰り返し言う」と言われることが良くあります。
多くの場合、それは「自閉の人は相手の感情を理解できないし、相手の立場に立って考えられないからそうなる」と「理解」されるのが普通です。そういう「障がい」なのだと。そして支援の現場などでは「課題」として「相手を気遣った正しい言い方を学ぶ」ことが問題になることがあります。それはもう「常識」になっているように思えます。
私が逆SSTなどを通して、自閉当事者の大内さんたちのお話を聞いていて、一番ショックを受けたことの一つが、その「常識」に反して、どれほど大内さんたちが「相手のことを考えているか」ということでした。ただ考える道筋にズレがあるため、「定型的な感覚」ではそれが気遣いだとは全く気づけないのです。
この4年ほど、支援を必要とする方たちを対象に、学びの場を提供する「みんなの大学校」で、いろいろな授業を担当してきましたが、今年は「障がいと物語」と題して、精神障がい者や発達障がい者などを含む障がい当事者と支援者、家族、研究者が「障がい」にまつわる自分の経験や子ども時代の話などを語り、お互いの「人生の物語」を重ね合って理解を深めていく場を作ってみているのですが、そこでもある意味全く予想通りに「誰かが深く傷つく発言・感想」が出てきました。
もともと予想されていたことなので、第一回目の授業で、話題提供者の話に対して批判などを返すのではなく、それを聞いて思い出した自分の経験などを語る、という形にしましょうという設定にしたのですが、どうしてもその枠を超えた発言がやはり出てきます。
つまり、ある発言がその人の想像の範囲を超え、意図とは全く違うところで誰かを傷つけ、悲しみや怒りを引き起こします。すると、それに対する「反撃」としての発言がその人に対して行われ、また相手や周囲の人を傷つけ、あるいは恐れさせるという、わけのわからない負の連鎖が起こるのです。その結果、どちらの側も「私が一方的に被害者」という憤りの思いを抱いていきます。
授業では終了後に感想を書いてもらい、それを次回に皆さんにファイルでお渡しするのですが、ファシリテーターとしての私はそこで対話の場を維持するために、調整を図る必要があります。そこで「これは相手の人や周囲の人を深く傷つけて、ダメージを与える」と私の理解で想像したものについては掲載を控えるという方針にしていました。そして前回の授業ではそうせざるを得ない感想が寄せられたために、そのように対処したうえで、授業ではそう説明しました。
そうすると、これも予想通りですが、こういう問題が起こります。その感想を書いた方は、それが人を傷つけるということはほとんど想定していないので、ショックを受けるのですね。その点についてはその方に対して私は「申し訳ない」というしかありませんし、その場でもそういい続けました。
ここでひとつ考えてみたいことがあります。感想を掲載されなかった方は、どうしてそこで「ショック」を受けるのだろうかということです。「自由な発言を一方的に否定されたから」でしょうか?「不当な扱いを受けたから」でしょうか?「自分の率直な思いを受け止められなかったから」でしょうか?
それまでずっと周囲から否定され続け、排除され続ける経験を積み重ねてきた方は多いので、そういう場合もあるかもしれません。でももうひとつほんとうに大事な視点があると最近強く思うようになりました。
次回、その話を書いてみたいと思います。
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
投稿はありません