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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2024.07.01

「定型文化」と「自閉文化」

図書新聞に「自閉症を語りなおす」の書評を書いてくださった髙木美歩さんと初めてお会いしていろいろお話して,とても刺激的で面白かったのでちょっと書いてみたくなりました。

 

髙木さん自身,ASDの診断を受けられているのですが,たとえば大内さんとは全く異なるタイプで,大内さんがいろんな形でどんどん外に出て発言したり活躍されたりして,ご自分の支援に関する考え方を多くの人に理解しようとされているのに対して,淡々と自分の身の回りで自分のペースで仕事をこなしていかれる感じの方に見えました。

発達障がい児の支援にもかかわりをずっと持たれていますが,その支援の様子も教えていただいて,これもすごく勉強になりました。とにかく「子どもにわかりやすいように,端的にしてほしいことを伝える」ということ,「子どもに振り回されることなく,けれども感情的に対するのでもなく,淡々と必要なことや大事なことを伝え続けていく」という感じの姿勢を貫かれているように感じます。

自閉的な傾向を持つ人は,自他境界があいまいになりやすい,という言われ方をすることがしばしばありますが,私の理解でいうと,それは「視点の切り替えと組み合わせ方」に定型とは違う独特の形を持っていていると思えます。少し雑な言い方ですが,定型のように「私の視点」と「相手の視点」を一緒に考えて対処することにむつかしさを感じ,「私の視点」で考えると「相手の視点」が見えにくくなり,次に「相手の視点」で考えると「私の視点」が見えにくくなる,という感じで「私」と「相手」がどちらにしても一方向になってしまうようなことだと感じるわけです。

髙木さんはそうなりがちな子供に対し,あくまで子どもと違う視点を持つ人として向き合い続け,子どもが「わがまま」に見える振る舞いや要求をしても,それとは違うご自分の考えや姿勢を淡々と示し続けられるんですね。で,時間はかかりますが(場合によっては年単位),そのことである時子どもの方に自分とは違う見方に気づきが訪れるんです。「あ,そういうことか」と。そうするとすごく振る舞いが変わってくる。

それまで「相手が見えない」ことで葛藤を繰り返していた状態が,「こうすればいい」ということがわかってすっきりしてすごく落ち着いた感じになる訳です。

そういうプロセスを,(私の理解ですが)高木さんは「ルールを教える」といった言葉で説明されていました。どうやって人に接すればいいか,「ルール」がわかるとうまくいくようになるというわけです。

そこで次の面白いポイントが見えてきます。「ルールを理解」というと,なんだか無味乾燥な「頭で理解するテクニック」で「なぜそのルールが大事なのか」といった意味理解が伴わない機械的な行動になってしまう,という印象を私などは持ちがちなのですが,そこがそうではないのです。

何が違うかというと,「知識を教え込む」のではなく,一方では「○○でびっくりしたんだね?」など,その子の気持ちを受け止める言葉かけを適切にされ,他方では「○○をされると私が驚いてしまう」とか「○○をしてくれて嬉しい」など髙木さんの思いを伝え,子どもと同じ人間として向き合って,(私のことばでは)「思いを伝えあう」ことがセットになっているのです。そういうこととセットなので,「ルール」は髙木さんとの人間関係の深まりにつながり,髙木さんへの信頼が作られていきます。

「ルールの理解」はそれが目的であることより,そのための言ってみれば「手段」の役割をしているんですね。だからかなり難しいと言われてほかの事業所から回ってきたお子さんがすごく落ち着いていく。それをほんとに淡々とこなされていく印象を受けました。

定型だとそこですごく情緒的な理解を子どもに求めやすく,それが伝わらずに支援者が疲弊して燃え尽きていくという展開がしばしば起こりますが,そういう疲弊の仕方からはかなり自由な感じがします。髙木さん自身はその自分のことを「冷たい人間だから」というふうに説明されますけれど,実際に生じていることは,定型的に表現すれば「子どもを信頼し,子どもに信頼される温かい人間関係」が育っていくことですし,そのことによって子どもがとても落ち着いた姿を示すようになっていくわけです。

「冷たい人間だ」という,何度か繰り返された髙木さんの「自己紹介」は,定型的な情緒的つながりを求めないことについて,定型側から繰り返し言われていることなのでしょう。だからそれを定型向けの説明の仕方に使われているように感じます。

そんなお話を気が付くと3時間続けて,私としてはまた見えてきたと感じたことがありました。それは「定型には定型的な人間関係の作り方の仕組みがある」のに対し,「自閉には自閉的な人間関係の作り方の仕組みがある」ということ,そして「自閉的な人間関係でこそ落ち着く自閉間の関係がある」ということです。

なぜそれがとても重要と感じるか,ということですが,これまでは「自閉の人は定型的な人間関係は合わない」ということは確信していましたし,それを無理強いすることで二次障がいなど深刻な問題が生じるのだ,と思ってきましたが,「じゃあ自閉の人同士はうまくいくのか?」ということについてわからない状態が続いていたからです。実際支援の現場でも自閉の人同士がうまくいかないことも少なくありません。

その疑問を今回の髙木さんのお話を聞いて,超えられたように感じたわけです。髙木さんのような「モデル」を子どもに示すことができれば,その子との間に「自閉的な感覚」をベースにしながら,落ち着いたいい関係(定型的に表現すれば思いやりのある温かい関係)がちゃんと作られていくということが「事実として」見えたからです。

そこでもうひとつ私の中で整理されたことは,身体感覚と頭でのその意識的な理解の関係が定型と自閉でかなり異なるということです。身体感覚の受け止め方のズレについては,綾屋さんから「空腹がわからない」などというお話を聞いてかなり注目はしていたのですが,その感覚の受け止め方の違いが,体についてのコントロールの仕方の違いを生み出していきます。

そして定型はその身体感覚が他者と共鳴しやすいため,そこをベースに意識レベルの相互理解が成り立ちやすいのですが,どうもその点で自閉の方は定型との間に身体感覚の共鳴が起こりにくいようで,そうすると相手を理解するには意識的に頭で理解するプロセスが欠かせなくなります。そうすると「ルールの共有」といった「意識レベルの調整」がより重要な意味を持ち,「情緒的な共有」の重要性は後からついてくる感じになると考えられるわけです。それは人間関係の調整の仕方のかなり重要な違いであり,したがって私の理解でいう「文化の違い」と言えることになります(「文化とは何か,どこにあるのか:対立と共生の心理学」新曜社)。

ということで,「定型的な文化」と「自閉的な文化」はどちらも成り立つのだ,という見通しを今回持つことができました。そうすると,それぞれの「文化」の仕組みをさらに明らかにしていきながら,そのうえでその二つの「異文化」をどうつないでいけるのか,が次の課題としてより明確になっていきます。

自閉当事者にしかできない支援の重要性というものを改めて実感することになりました。

 

 

 

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