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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2024.08.27

当事者視点を踏まえた関係調整としての支援

発達障がい児の支援と最初に聞くと,「苦手なことを減らす」とか「正しいやり方を教える」といったイメージが強いかもしれません。あるいは「訓練する」みたいな。実際発達障がい児は定型発達の子どもだったらわりと苦も無くこなすことがなかなかできなかったり失敗して,本人も苦労するし,保護者もすごく心配になりますから,そのこと自体はおかしなことでも不思議なことでもありません。

けれども支援スタッフの皆さんといろいろ子どもへの対応を考えたり,また保護者の方の悩みをじっくり聞いていると,実は一番大きな問題はそういうところじゃないんだよな,ということに気付くようになります。実際経験の多いスタッフの皆さんほど同じ考えで子どもに向き合われています。

発達障がいの特性は,現在の大方の理解では「治る」といったものではなく,生まれたときからその子の性質として持っているものです。もちろん環境によってその現れ方は変化しますし,その子なりの発達はあるので,それを求めること自体は自然なことですが,だからと言ってその子が持って生まれた特性がなくなるわけではなく,その特性を前提にしながらいろいろ工夫して生きていく技を身に着けていくことで変化が起こるわけです。

その特性自体はその子にとっては「生まれながらの自然」なものですから,そこを見間違えてその特性を「なくそう」と無理強いをすることで,引きこもり,鬱,不登校,自傷,他害といった二次障がいが生まれてくることになります。だから支援の一番大事なポイントは,二次障がいにならずに,その子がその子にとって無理のない形で伸びていく道を探していくことです。

二次障がいが深刻になる事例は発達障がい支援の現場ではほんとに日常的に接するものです。保護者などの方たちを対象に行ったある講演でも,終了後にいただいた質問の中で「就学前の自閉の息子が,<殺す>と言ってくる」と訴えられていたお母さんがありました。とても深刻な状態に見えます。

その講演では「自閉と定型の間でどれほど理解にずれが起こりやすいか」ということを具体例などでお話しし,それは「正しさ」の感覚がズレるからで,だからこちらが一生懸命「定型の正しいやり方」を教え込もうとしてもうまくいかないこと,定型と自閉ではどれほどいろんなものの感じ方,見方,理解が違い,その結果お互いに相手が理解できなくなること,そして結局子どもも保護者も苦しくなってしまうことを説明しました。

そして自閉系の人はそうやって定型的な「正しさ」から否定され続けることで二次障がいにもなる,ということ,だから二次障がいを防いでその子らしさを大事に生きられるように支援するには,一方的に定型のやり方を押し付けるのではなく,その子の持っているものとの調整が大事なんだというお話をしたわけです。

あとからそのお子さんを担当されている支援スタッフの方から伺ったことでは,子育てに一生懸命頑張っていたにもかかわらず,子どもに「殺す」とまで言われて苦しんでこられた保護者の方が,その講演を聞いてすごく気持ちが楽になられたそうです。今までスタッフの皆さんたちが一生懸命支援の中でお伝えしていたことが,講演をきっかけにその方の中で整理されて納得されたのかもしれません。

そしてそれまでの「定型に近づける」ための接し方をすっぱりやめられたようでした。そうしたら,子どもの様子が全然変わってしまって(ある意味「素直」になって),ご両親がものすごく驚かれたということでした。「殺す」という言葉は,自分に理解できず,あわないこと(嫌なこと)を要求され続けて苦しんできたその子が,「これ以上そういうことをやめろ!」と必死で訴える気持ち,つまりはギリギリのところで自分を守る「防衛」のためのことばだったのでしょう。

最近弁護士さんから相談を受けた,ある自閉症の青年が起こした事件についても,お話を聞いていると,周囲に理解されない厳しい環境の中で作られた彼なりの「正義」が,怒りと共に暴発して犯行を組み立てた様子が見て取れます。その意味であきらかに二次障がいとしての様相も見えてきます。
彼には彼の「正義」がある。だから被害者には謝罪ができなくもなっています。定型的に見れば単に「反省できない人間」「道徳性が育っていない人間」と見えてしまうでしょうが,実際はそうではないみたいです。たとえば彼は被害者の方に,ある意味真摯に「謝罪できないことを謝罪する」のです。

自分がそういうことをしてしまったことは,自分の考えの中ではやむにやまれぬことで,単純に「間違ったこと」なのではない。もちろんほかの人からそれは「謝罪すべきこと」と考えられることは彼なりに理解しているのだけれど,自分の真剣な思いの中では,どうしても単純に「悪いこと」とは思えない。だから自分の理解に従えばいい加減に謝罪する気持ちにはならず,「謝罪できないことを謝罪する」形になるのだと思えます。

今年書いた「自閉的世界の形成過程に関する一試論:対話的ディスコミュニケーション分析の視点から」(駒澤社会学研究62号81-109)という論文に紹介したある自閉的な女の子のお母さんとのトラブルも,同じような構図だと思えます。お互いにあることについて「正しい理解」をしていると思っていて,ところがお互いに何について話しているのかがずれていたので,対立してしまうわけです。その結果女の子は自分の主張を絶対に曲げようとせず,そのことでお母さんが「なんてがんこな子」と感じる。実際は「正しいこと」の内容がずれていたわけですが。

似たようなことは支援の現場でも繰り返されがちです。子どもは子どもなりの「考え」をもってふるまっているのだけれど,周りはどう見てもそれをおかしなこととしか思えない。だから周りの人が「正しいこと」を教えようとするんだけど,その子は自分の「考え」が理解されず,否定されたと感じるので,それを受け付けない。そうすると周囲からは「理不尽な頑固,わがままを通そうとする子」に感じられ,困ってしまうわけです。
そういういろいろな事例に接するにつれ,問題は「正しいことが理解できない」という「能力の欠如」なのではなく,「正しさ」のズレなのだと思えてきます。

ではなぜそこにズレが生じるのかというと,それはお互いに体験する世界にズレがあるからでしょう。自閉と定型では環境の中で注目する点にも違いがあり,それらの情報を統合する仕方にもズレがある(たとえば中枢性統合の弱さの問題などで言われることがあります)。言ってみれば「体験される世界」が異なっているわけです。

定型は比較的その点で共通性が高いので,似たような体験世界の中でお互いに相手の感じていることや言っていることが理解しやすく,それをベースにお互いのコミュニケーションを組み立てていきます。そしてそこで比較的共有された「正しいコミュニケーションのルール」を作り上げていくことになります。ところが視点が異なる自閉の人はそこが全く見えてこないということが起こるわけです。
たとえばある,かなり強い自閉傾向の人と話をしていると「誰もルールを説明しないのに,定型同士ではそれが共有されているようで,まるで超能力者のようだ」と繰り返し言われていました。

そういう環境の中で彼は彼なりに人づきあいの中で作り上げ,彼なりの正義感の中で守っている厳格なルールがあって,その意味でとても誠実な人です。ところがそのルールが定型には合わないのですね。だから軋轢が繰り返されます。そしてお互いに傷ついたり怒ったりしている。

人は自分が体験する世界の中で自分なりに「正しい」生き方を模索していきますので,その体験世界に大きなズレがあれば,「正しさ」にズレが生まれて当然と考えられます。体験の様相は,特に自閉=定型間のズレに関しては,生まれながらのものと考えられますし,異なる足場から「正しさ」を組み立てていくことになり,そして深刻な二次障がいなどにつながる重大な「正しさのズレ」が生み出されるわけです。

自閉についての研究を考えても,「自閉の人はどういう能力がないのか」という研究だけではそういう理由で実際に自閉=定型間で生み出されている深刻な葛藤は理解できないし,当然それを調整することもできないわけです。「これがわからない人だから,そこは定型の側が善意で配慮しましょう」というところまででとどまってしまいます。あくまで定型は配慮する側で,自閉は配慮される側で,だから中には「せっかく配慮してあげているのに聞き入れようとしない」と怒り出す定型の人もあったりします。実際はその配慮が自閉の人にとっては配慮になっていないだけなんですけど,そのことはとても分かりにくいので。

ということで,実際に発達障がいの人が現実に苦しんでこと,周囲の人が苦労していること,そして両者の間に生じている葛藤は「認知(理解の能力)」のレベルのことではなく,むしろお互いを尊重して関係を調整する正しいしくみに関わること,言い換えると「人間関係の倫理」の問題領域なのだろうと思えます。

 

今作成中の論文では,そもそも「正しいコミュニケーションとは何か」ということの考え方に自閉=定型のズレが生まれているという見方で問題を考えています。「正しいコミュニケーション」については言語学では「語用論」という領域で研究され,自閉的な人はこの語用論がうまく身についていないのではないかという考え方も出てきます。

でも実は自閉の人は自閉の人なりの「語用」があるという視点からの研究が実は「異質なもの同士の共生」を考えるうえではとても大事なんじゃないの?ということを書いているのですが,関連してネットで高嶋由布子さん※のこんな文章に出会いました。

聴覚障害と自閉スペクトラム症の関係ー語用論の視点からー

※ 国立障害者リハビリテーションセンター研究所 高次脳機能障害研究室 流動研究員

手話で語り合う聴覚障がいの方たちも,独特のコミュニケーションスタイルを作り上げていて,どのようなコミュニケーションが「正しい」のかの考え方に健聴者とはズレがあるようです。自閉についても同じことが考えられるのではないか,という視点からの文章ですが,ほんとにそうだと思えます。

違う特性をもって生きる人の振舞を,頭から定型的な感覚で否定するのではなく,その人がどんな思いでそうしているのか,「当事者視点を踏まえた関係調整としての支援」ということが,今後ますます重要になって行くだろうと最近改めて確信を深めてきています。

 

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