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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2024.09.06

自分を「客観的に見られない」理由

「アフリカのタンガニーカ湖に,ンゴロンゴロという魚がいるのですが,先日50cmの成魚が吊り上げられて,みんなびっくりしました。」

以前大学の心理学の講義でときどき使っていたネタです。

ところでなんでみんなびっくりしたのでしょうか?これがたとえば「50cmのめだか」だったら原因ははっきりしていますよね。そんな大きなめだかなんて聞いたことがないからです。ところが「50cmのクジラ」だったらどうでしょう?(もちろん湖にはいませんけど(笑))今度は「そんな小さなクジラがいるの?」とびっくりするでしょう。

何かを見たとき,それがどんな意味を持って感じられるかということは,ただそれだけを見ていては分かりません。私たちは常にほかのものと比較しながらその意味を感じ取っています。「自分」というものについても実は同じなんだよね,というのが今回の話のベースにある理解です。

ちなみに上のンゴロンゴロの話は嘘の作り話(フェーク)ですので,どうぞ信じてほかの人に話したりなさらないように!

 

自閉的な子について,保護者や支援者など周囲の人からしばしば語られることとして,「自己認知が甘く、自分の能力を過大評価している。」ということがあります。また障がい者の就労関係でお仕事をされている方からも同じような悩みを聞くことがあります。一言でいうと「自分のことが全然見えていない」とその人を感じられているということになるのだと思いますが,それは同時に「現実を客観的に見ることができない人」として評価することでもあります。「正しい障がい認知や障がい受容ができていない」と言われることもあります。

そう理解すると,「どうやったら自分のことをもっと客観的に正しく評価できるのだろうか?」「どうやったら自分の障がいを受容できるようになるのだろうか」ということが支援の一つの目標となり,何かのテストをやってその結果を見せるなど,そのための模索がいろいろ行われたりすることにもなります。

自分の状態を理解することと,周囲の状況を理解することは,どちらも誰にとっても大事なことです。仮に私が有名な大谷翔平選手のようにすごいホームランを打ち,すごい剛速球を投げる能力がある,と思い込み,その理解のもとに無駄な振舞いを重ねるとしたら不幸になるのは私自身ですし(笑),周囲の人たちは私のその力を当然認めるはずだと思ったとしたら,周囲の人の理解とのあまりのギャップに,周囲の人が困ってしまい,また私自身もその結果不幸になるでしょう。

ではどうしてそんな困った状態に陥ってしまう,ということが起こるのでしょう?

 その理由を丁寧に考えていくには,本当はまずは「客観的に見るってどういうこと?」「正しい理解,正しい受容っていったい何?」といったことから整理していかないといけないのですが,ここではもうちょっと素朴に「ほかの人たちからみても<そうだよね>と言ってもらえるような見方や理解」というくらいの理解で話を進めていきます。その見方や理解の仕方が「絶対に正しい」と決めつけてしまうとちょっと問題が起こりますが,そうでなければとりあえず大きくは違わないので。

昨日,関連する問題について,障がい者の就労移行の事業所で活躍されている方と,発達障がい児支援にずっとかかわってほんとに丁寧に子どもたちの「人生」に付き合って素晴らしい支援をされている方と,話し合う機会がありました。その深い経験談と素晴らしい支援のお話を聞いていて,この問題への理解がすごく進んだ気がするのです。そのことについて少し書いてみたいと思います。

 

障がい者就労の支援に携わる方は,「自己認知が甘く、自分の能力を過大評価している」と周りから見られてしまう方たちの一つの傾向として,経験してきた世界がとても少なく,小さいということを言われていました。だからもっといろいろな経験をして世界を広く知っていくことが大事になると。

このお話は私にはとても納得のいくものでした。私自身もそんな経験を積み重ねて今に至っていますが,人間はどうしても自分が経験したことに基づいて理解を組み立てていきますから,自分が経験していない別の世界は,言ってみれば「ないもの」と同じになったり,そういう世界があったとしても,自分の経験している世界と同じものだろうと考えてしまうのですね。

だから今まで出会ったことのないタイプの人に出会ったり,海外に行って全く違う生き方をしている人たちの世界を見たりすると,「こんな人もいるんだ!」「こんな世界でのこんな生き方もあるんだ!」とびっくりしてしまい,その結果,逆に「ああ,自分はそうじゃなくってこんな世界に生きているこんな人間なんだ」と自分のことがもうすこしわかってきたりします。

障がいの特性によっていろいろ大変な思いをする子どもも大人も,とうぜんそういう新しい経験によって自分が新しく見えてくるということが起こり,新しい自分の可能性もそこから見えてくるわけですが,残念ながらそういう機会を得ることが,定型発達者以上にむつかしくなっている現状があるわけです。

まずは保護者の視点から考えると,たとえばあるお母さんは,お子さんが外出先でパニックになったりして,周りの人に迷惑をかけてしまうので,あまり外に出られないと悩まれていたお話を聞きました。そんなふうに「周りを気にして子どもをいろんなところに連れて行っていろんな経験をさせてあげることがしにくくなる」ということは,少なからずあるように思います。

また「この子が理解できたり,したりできることはほんとに少ないから,いろんなところに連れて行ってあげても,あんまり意味がないんじゃないか」と思われている方もあるようです。急に迷子になってしまったり,下手をしてけがをしてしまうことなども心配になります。ますます新しい経験について,親の方が引っ込み思案になりがちです。そうでなくても「子育てが大変」と感じて,そこまでのエネルギーが出にくいこともあるでしょう。

次に本人の視点から考えると,「こんなこともできない」「どうしてこんなことをするんだ」など,周りから否定される経験が積み重なりやすくなります。とくに周囲とのコミュニケーションに困難が生まれやすい自閉傾向の人の場合,何を言っても周りが理解してくれない,誤解される,うまく伝わらない,といった経験が積み重なりますし,なにかアドバイスなどをもらっても,意味がよくわからないし形だけまねしても結局うまくいかず,問題は自分で改めて解決するしかない,という思いにもなります。

その結果,周りの人との関係を育てて新しい世界に踏み出し,そこで新しい体験を重ねていくことについては本人自身が二の足を踏んだり,あるいはもうそんなことは無駄だと絶望的な気分になったりすることもあるわけです。特に自閉的な人の中で,「周りの人を理解することは不可能だし,自分のことが理解されることもあり得ない」と確信し,そういう思いの中で「自分だけの世界」を作り上げていくしかなくなる人もいます。

大内雅登さんは「自閉症を語りなおす」の中で「自己物語」を自分が生きているということを書かれています。誰でも自分の物語を紡ぎながら生きているのは同じなのですが,大内さんの自己物語の特徴と私が感じるのは,それがほかの人と共有される可能性については,かなり強く悲観的に感じていらして,ただそれでも自分はその物語に添って自分をほかの人に呈示して生きていくしかないんだ,というある種の強い覚悟を持っていらっしゃることです。

「私は私の描いた自己物語を生きられればいいだけで,相手の望む物語りの登場人物になるつもりなど毛頭ありません」(大内2023,p.72)

「相手の望む物語の登場人物になるつもり」がないという強い言い方は,大内さんはある章のタイトルに「そんなつもりじゃないのに:伝わらないことだらけの日常」という名前を付けられているように,その裏側に「どうやったってお互いに理解し合えない」というある種の「あきらめ」の感覚を感じるのは私だけでしょうか。

大内さんの「自己物語」はそれに基づいて積極的に人とかかわろうとする,ある意味での「強さ」をもって人々の間に生きるためのツールとなっていますが,そういう困難の中でも社会の中で頑張り続けられる方はそれほど多くないかもしれません。むしろあきらめて「自分だけの世界」の中に閉じこもるように生きざるを得なくなる方も多いのだと感じます。

 

さて,障がいの有無にかかわらず,だれもが自分自身の物語を生きていますが,そこに他者の物語とのかかわりが少なくなればなるほど,その自分の物語は自分だけの理解で作られるしかなくなります。そして上に書いたように,人が自分を「客観的に」理解できるには,いろんな人と交わっていろんな経験をすることが欠かせないのだとすると,その経験の場が失われてしまえば,当然「自己認知が甘く、自分の能力を過大評価している。」と周りから見られる状態になる可能性が高まります。それはある意味で当然のことでしょう。

課題はお互いに異なる物語世界に触れあって,自分の物語を豊かにしていく経験をどうやって積み上げていくのかということになるかと思います。

みんなの大学校で今年前期に行った「障がいと物語」という授業は,そういう試みの一つとして企画しましたし,またある意味子どもの「人生」を支えながら一緒に模索していくような素晴らしい支援をされている方のお話を聞くと,実際にそういうことが本当に力になっていることを確かめられて感動もします。

そのあたりの話もまた改めて書いてみたいなと思います。

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