はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.08.25

参加型の発達障がい研究

 
 
ニューヨークに、昔の鉄道の基地か何かを利用した「ハドソンヤード」という場所があって、そこが新しい大型開発地域になり、2020年の完成予定で高層ビルやいろいろな施設などが立ってきています。ニューヨークの新しい名所になってきているようです。
 
そこで芸術の新しいスタイルの基地(※)として、Shedという場が作られているんですね。
 
一階で無料のチケットを「買う」と、2階と4階(レベル:それぞれ二階分の高さがある大きな作品用の空間になってますので2階の上は4階です)の作品を自由に見ることが出来ます。写真もフラッシュだけ気を付ければあとは自由です。
 
そこに展示されている作品のいくつかに共通するのは、「人に見られる作品を展示している」というのではなくて、「ある素材を置くことで、その場に参加してその人なりの体験をする場、つまり参加によって生まれる作品が提供されている」というスタイルがあるということです。
 
ちょうど今IT技術はVR(仮想現実)とかAR(拡張現実)の方にどんどん進んできて、私たちがその世界に体ごと入り込んで新しい体験をする、という場づくりを進めていますけれど、多分それと共通しているのかなという気がします。
 
美術には素人ですが、たとえば絵画の展開を見ると、ある「対象」を描く、というものから、現代になるとその「対象」を崩していく方向が見えます。たとえばシュールレアリズムは私たちの常識の中にある物の姿を崩していきますし、ピカソのキュービズムは「ひとつの視点からの絵」ではなく、「たくさんの視点から見たものを組み合わせた絵」へと進んでいきます。どちらも「今見ている対象」を超えようとしています。
 
印象派では物を光の点に分解する、という描き方を作ったりしましたが、それがさらに進むと、ということなのか、たんに光の点だけで、そこに何が描かれているわけでもない、という感じの作品が出てきたりします。そうなるともう「対象が描かれる」という姿勢は失われてしまうんですね。たんなる光のイメージになってしまう。
 
そのあと、昔ポンピドーセンターで見ましたが、便器がいきなりそこにごろっと置いてあるような、生活の中の素材がそのまま見せられるような作品があったりして、「美しさ」とは程遠いような、けれども「生活の臭い」がそのまま伝わってくるような世界が作られていく。
 
アンディウォーホルの作品とかは、その流れから見ると、ありふれた日常を素材に、それをコラージュすることでちょっと違った「美」を生み出したのかもしれません。
 
そういういろいろな展開が見える気がしますが、そのどれも「鑑賞者が作品のこちら側にいて、向こうにある作品を鑑賞するもの」というスタンスが残っているように思います。そこが今変わってきているのかなと感じるのです。「主観と客観の位置取り」が変化してきている、という風にも言えるでしょう。
 
たとえば四面のスクリーンが空中にぶら下がっていて、それに取り囲まれながらそのスクリーンに映し出される映像を見るような作品があります。それぞれに映っているものは関連はあるけど違うもので、どれを見たらいいということが決まっていません。自分で首を回したり向きを変えたりしていろいろ見まわすことになります。前のを見ていると後ろのがわからないので、全部を一緒に体験することはできない。つまり「作品」の中に入った人が、あちこち見まわす中で「自分の作品」をそこでいちいち作っているわけです。
 
絵なども壁に固定されているのではなく、上からぶら下がっていて、半透明で両方から見える形になっていて、その周りを歩きながら適当に見る形になるというのも似たようなことに思えます。
 
いろんな人形を等身大で作って座らせている作品もあります。頭は子どもが作った紙粘土細工のようなもので、服は普通の服を着たたくさんの人形で、それらを車いすに乗せてニューヨークを練り歩くデモンストレーションをやり、その場面が入り口近くに映像で映し出されています。そしてホールの中の他の作品を見た後、外の景色が見られる場所に進んでいくと、そこにその人形が観客のように座って外を見たり、壁の方を見たりしている、という形の作品です。
 

 
それが面白いのは、その人形の横にベンチが置かれていると、並んで座って一緒に写真を撮りたくなるということです。私も撮りましたが、見ていると結構多くのひとがベンチに寝っ転がって写真を撮ってもらったり、横に座ってツーショットを撮ってもらったりしてあそんでます。
 
これもまた作品の中に入り込んで、自分の日常とつないで楽しむという「自分の感覚から作る」スタイルが自然とそこに生み出されてしまうわけです。
 
 
さて、何が言いたいのかと言うことなのですが、「研究」ということについても、同じような流れが出来ているのかなと思います。
 
古典的には研究と言うのは対象の外部から、対象を専門家として正確に記述し、「真理を解明する」という営みとしてありました。それに対して、現象学などに影響を受けた研究の流れには、「見た人によって見るものは違う」ということを前提にしたような研究の展開があります。物理学も今では研究者の測定という能動的な働きかけから独立に対象が記述できるとは考えてないようです。そして社会構築主義と言われるスタンスのように、「唯一の固定的な真理なんてないよ」という研究の流れも出てくる。
 
私はやはりその先が気になる人間で、生活の臭いがプンプンするような世界を、自分がそこに参加していることを見失わない形で、しかも自分の参加によって描かれる世界それ自体が面白く変化していくような、そんなスタンスでいろんな方と共同で問題を考え、記述し、議論していきたいのですね。
 
このブログでも、「学問的な真理」を「読者」に「説明する」みたいなスタンスはとっていません。たんに自分が経験したことから素朴に感じることを書いていって、そこでそれを読んだ方に何かの変化が起こるといいなと思いますし、また読者からのフィードバックによって私の見え方が変わってくることも楽しみなわけです。個人的な話についての独り言なんだけど独り言じゃない。
 
発達障がいの問題は、社会がものすごいスピードでものすごく深いところまで変化しているために、今までの固定的な見方がどんどん崩れていく状況にあると私は感じるので、そういう意味でも自分の実感を大事にしながら、対話的にお互いを触発しながらそこから面白いものが生まれていく展開を探っていきたいと思っています。
 
 
※SHEDのパンフレットから一部紹介すると、こんなことが書いてありました。「Shedはあらゆる人々のために、あらゆる芸術領域の独創的な作品を提供する非営利的な芸術センターです。……社会的な、そして経済的な壁を最小限にすることで、私たちはイノベーションと独創的な芸術体験を暖かく受け入れる場を作りたいと思います。その創造的な過程に接し、洞察する機会を提供することで、私たちはアーティストと鑑賞者の間に深いつながりを作り上げていきたいと思います。」

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