2019.08.24
障がいってなに?
これも昔聞いてとても印象に残ったエピソードです。
ある、やはり知的障がいを持つお子さんを育てているお母さんが、ときどきふと「この子のどこが障がいなんだろう?」とわからなくなることがある、というお話でした。
もちろん言葉で意志を伝えることもむつかしかったり、同じ年頃の健常の子とはいろいろな違いがあるわけで、それを「障がい」と言えばそうなわけですが、けれども少なくとも家の中では、もうその子の姿は「自然」で、その子なりの要求表現も家族はすぐにわかって対応できますし、とくに「困る」こともない。
そうすると、その家の中での、家族の中での暮らしでは「普通」で「自然」な世界ができて一緒に暮らしているその子を、あえて「障がい」などと名付ける必要がなくなってきます。その子はそのまま「○○ちゃん」であって、別に「障がい児○○」ではないわけです。
ただ、いったんその子と外の世界に出ると、やはりお母さんはその子が障がい児なのだ、ということを意識させられるということでした。
このエピソード、障がいとはなに?ということを考えるうえで、とても大切な意味が含まれていると感じます。
横山草介さんとのやりとりの中で、横山さんが重視されていたのは、意味の文脈というのはひとつではない、ということです。そうすると、この例でいえば、お母さんは家庭という文脈の中で、○○ちゃんはごく自然にふるまい、家族の中での「普通」の生活を送っていたわけです。
けれども家庭を出て外の文脈の中に入ったとき、○○ちゃんはその環境にうまく対応できず、「不自然」な動きになってそこに困難が生まれます。
ですから、○○ちゃんを「障がい児」として見る必要のないような暮らしの文脈と、「障がい児」として見ずにはいられない暮らしの文脈と、その二つがあるのだということになります。
ということは同じ○○ちゃんも、その子が置かれた文脈(状況とか環境と言ってもいいと思います)の中で、それに応じて「障がい児」として見えてきたり、見えてこなかったりということが起こるのだと言えます。
単なる言葉のお遊びと感じられるかもしれません。ただ、「何のために、何を目指して、何をすることが本当に大事な支援なのか」ということを考えるときに、このことがどうしても引っかかってくるのだと私は感じています。
ですから、全国を回って行っている研修の時には、最初のステップとして必ず「障がいって何?」ということを改めて参加者と一緒に考える、という内容を入れ、その中で「何を障がいと考えるかは、社会によっても、時代によってもものすごく違うし、変化し続けている」ということをお話しすることにしています。
たとえばSLD(限局性学習障がい)という障がいは、私が子どものころにはありませんでした。もちろん同じような特性を持つ子どもはその頃もいくらでもいたわけですが、その子を特に障がいということはありませんでした。単に成績が悪い、とかできないやつ、といったことで見られるだけです。
勉強が苦手でも人付き合いがうまくて、活発で快活でといった性格で人気者であることもあります。そういう文脈では、「面白く楽しい○○君」というのがあって、その○○君は勉強で苦手なところも結構ある、ということで済みます。ところが今では「SLDの○○君」で、「ちょっと面白いところもあるけど」という感じで、話が逆転してしまいがちです。
発達障がいは、日本の法律(発達障害者支援法)的には「脳の機能障害であって」(第2条)とされていて、それは持って生まれた体の特徴の訳なので、それまでなかった化学物質の影響で発生率が多少変動するということも全くないとは言えませんが、基本的には時代によって大きく変動することはないはずです。
つまり、いつの時代にも、今は「発達障がい」と言われる人たちはいたと考えるのが普通です。でも「発達障がい」という括り方はなかったのですね。別の言い方でいえば「発達障がい」という意味付け方がなかったとも言えるでしょう。
この話、最初に書いたお母さんの素朴な思いのエピソードにつながらないでしょうか。つまり、「発達障がい」の特性を持つ人が、その人が生きる文脈の中で、特に大きな問題もなく、その人なりの役割をもって生きていられれば、周りも本人もそれを「障がい」といった特別の言葉で括りだす必要はなかったわけです。それは家庭の中で○○ちゃんがごく自然に家族の中で生活していたのと同じです。
けれどもそれとは違う生き方の文脈が世の中に作られてくると、前と同じ人も、その新しい文脈の中では「障がい者」という括りだされ方をするようになります。新しい文脈にうまく合わなくなって、お互いに困難を感じるようになるからです。家庭の中で自然に生きていた○○ちゃんが外に出ると「障がい児」とお母さん自身意識するようになるのも同じです。
そうすると、「障がいの支援」ということを考えるときには、「どういう文脈の中で考えるか」ということ、あるいは「どういう文脈をこれから作っていかなければならないか」ということと切り離しては考えられないのだということになると思います。
こういう言い方はとても抽象的でわかりにくいと思いますので、また少しずつ実際の事例などにも触れながら、具体的に考えていきたいと思っています。
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