はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.09.06

遊びか訓練か(2)

 
 
「遊びか訓練か(1)」では、幼児の段階では遊びが主となり、その中に実質的に訓練の意味が入り込んでいる、ということを書きました。
 
 
ではその後、小学校に入る段階ではどうでしょうか。
 
少なくとも日本では幼児教育や保育の段階では、園にもよりますけれど、遊びを中心とする考え方が多いと思います(※)。それに対して小学校以降は「学ぶべきこと」がどんどん増えていきます。勉強も興味・好奇心をもって取り組めるのが一番効率よく身に着き、応用も効くのですが、それがむつかしいこともあります。むつかしくてもやらなければならない。
 
そうすると「訓練」という性格が強くなりますよね。
 
「訓練」というのは一般的に言うとつらくても我慢して頑張る、という意味合いが多少なりとも含まれてくるので、小学校以降ではこの「我慢して頑張る」という力がだんだん強く要求されてくるのは間違いありません。やがてそれが「幾多の困難に打ち勝って、不撓不屈の努力でついに○○を達成した!」といった、人々からの賞賛の的になるような姿にもつながっていくことになります。
 
ではこの「我慢して頑張る」という力はどうやって身に着くのでしょうか。
 
こんな面白い話があります。発達心理学者の故岡本夏生先生から昔伺った話です。確か小学校低学年の子だったと思うのですが、問題が解けずに困っていました。それで学校の先生が「頑張って考えてごらん」といったところ、体に一生懸命力を入れて(つまり力んだ状態で)じっとしていたというのですね。
 
つまりこの子にとっては「頑張って考える」ということは、「一生懸命体に力を入れる」という意味でしか理解できなかったのだということになります。「頑張る」ということも、それぞれの場面での意味が分からないと、まるで頓珍漢なことになってしまうわけです。
 
何が言いたいのかというと、つまり「頑張る」ということにも発達があるということです。言い方を変えれば、頑張れるかどうかは、真面目かどうかとか、根性があるかどうかということ以前に、まずは頑張るという心理的な仕組みが発達の中でできてきているかどうかによって変わるのだということが大事になる訳です。
 
ではそこにどういう仕組みが必要かと考えてみると、「頑張る」という気持ちが成り立つには、実はその裏に「頑張りたくない」という気持ち、あるいは本音と言ってもいいかもしれませんが、そういう矛盾する気持ちがセットになっていることに気づきます。本当はそこから逃れたい気持ちもあるんだけど、そこを「がまん」してやり抜こうとするのが頑張ることですから。
 
ですからそこには「これをやらなければいけないんだ」と思っている自分と、「やりたくないなあ(あるいは他のことしたいなあ)」と思う自分という、矛盾した二人の自分がいて、葛藤を起こしていることになります。その上で、前者の自分が後者の自分を押さえて行動しているのが「頑張っている」状態です。
 
自分の中に二人の人間(自分)が葛藤しているわけですから、ある意味では対人的な、あるいは社会的な葛藤の一種とも言えます。その初歩的な姿は3歳前にはもう見出すことができて、たとえば「本当は遊びたいと思っている」んだけど、お片付けの時間になったので「我慢してお片付けをする」といった姿にそれを見ることができるようになります。この時「我慢する」理由は大人にそう言われているからです。
 
それからだんだん「何をどのように我慢して、やるべきことをやり通せるようになるか」ということの中身が発達していくと考えられます。
 
さて、ここでちょっと考えてみたいのですが、「我慢ができる」ためには何が必要でしょうか?「忍耐力」では単に言い換えただけなので答えになりません。こんな例で考えてみましょう。
 
「500ページある本を、3日以内に一つの文字も漏らさずにすべて手書きで書きうつしなさい」と言われたとします。どこまで頑張れるかというとかなりむつかしそうですね。脅されでもしない限り長続きしそうにありません。ではこんな風に言われたらどうでしょう?
 
「この本にはあなたの悩みを解決するための大事な答えがいたるところに隠されています。それを発見し、体に刻み込むように身に着けるには、書写という方法がとても有効なのです。ですから500ページある本を、3日以内に一つの文字も漏らさずにすべて手書きで書きうつしなさい。それできっとあなたは大事なことを得るはずです」
 
先ほどの場合に比べると、ちょっと頑張れるかもしれないと思わないでしょうか。
 
この二つで何が違うかというと、頑張る理由の違いですよね。最初のはなんでなのかわかんないけど、要求されるのでしかたなく、という感じになりますが、あとの方は「それが自分のためになるんだ(あるいはなるかもしれない)」という予想が立ちます。自分が理解できる目的、感じられる意義があるかどうか、これが大きな分かれ目のようです。
 
では次の場合はどうでしょう?
 
「3分間息を止めていられたら、100万円あげます。」
 
これは「目的」や「意義」(あるいは意味)ははっきりしてますが、我慢できないですよね。目的や意義が感じられるかどうかの以前に、そもそもそういうことを行い続けることが可能であること、ということが大前提の条件になります。

ですから、「頑張れる」ためには、まずその行いが実際に可能であること、そして頑張る意味を感じられることが前提として大事だということになります。
 
次回は小学生について、もう少し具体例で考えてみるところから始めましょう。
 
 
 
※ 文化差ということでいえば、日本は伝統的にあまり厳しい訓練を行うことについては否定的な傾向が強いようです。たとえば能は子どものころから厳しい訓練を必要としますが、世阿弥の「花伝書」を見ても、「子どもが自発的(自然に)に行うしぐさによさがあるので、大人からあまりあれはだめ、これはダメと言ってはかえって伸びなくなってしまう」といったことが書かれています。これに対して中国は伝統的に厳しい訓練を極めて重視する傾向が強く、それは今でも基本的には変わらないのですが、その中国でも21世紀に入る少し前のころからは、特に幼児教育の中で、「遊びを中心に」という考え方が教育学者などから強く主張されるようになり、いわゆる「先進的な良い幼稚園」ほど、そういうやりかたを早く取り入れるようになりました。

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