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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.09.08

遊びか訓練か(3)

「遊びか訓練か(2)」では、頑張るためにはそもそもその振る舞いが可能であることが前提となり、さらにそれを「我慢して」続けるには、続けることに何か意味を感じられることが大事だ、ということを書きました。

 

ではもう少し話を具体的にして、たとえば小学生の療育支援(あるいは入学準備のための支援)でしばしば問題になる「椅子に座っていられる」ということについて、この視点から考えてみましょう。まずこの問題への歴史的な背景から。

日本の庶民教育では、江戸時代の浮世絵で寺子屋を描いたものでは、机(文机)が乱雑に置かれて子どもたちもてんでに遊んだり勉強したりいたずらしているといった様子がよく見られます。一斉授業もなく、子どもの都合のよい時間に来て、適当に勉強して適当に帰る、といった形だったようです。

 

日本では明治になって1886年(地方での学校設置義務を含めて考えると1890年)に義務教育制が導入され、初等教育の普及は比較的順調だったようですが、その背景にはすでに江戸末期には寺子屋に自発的に子どもを通わせる家庭が少なくなかったことがあるようです。当時のことではっきりした統計はなく、地域差も大きいですが、半数程度かそれ以上という推定はしばしば聞きます。

とはいえ、江戸時代に全国一律の学習要領があるわけではもちろんありませんし、行かなければ仕事に就けないわけでもない。落語を聞いていると、職人同士で「あいつ、字が読めるんだって。あほちゃうか」みたいに言い合う場面が出てきたりします。落語ですからそこに誇張があるにしても、少なくとも勉強していないとだめと言われるのは読み書きそろばんが必要な商人などに限られていたでしょう。

そういう状態ですから、勉強のためにきっちり椅子に座って(当時なら正座して)、といったことが重要視されていたとは考えにくいことです。

我慢してでも椅子にちゃんと座っていなければならない、という「頑張り」が子どもたちに要求されるようになるのは、そう考えるとやはり義務教育制の導入によって、一斉授業形態が全国に普及し、座学が重視されるようになってからでしょう。

やがて社会の近代化に伴って、読み書きそろばんの力が社会の中で生きていくうえでどんどん重要性を増していくために、その力を身に着けることに価値を置く考え方も広がっていきます。官僚を頂点とした出世競争も、その地位に就くためには「学力」がモノを言うようになりました(地位に就いた後はまた別の力が要求されたりしますが)。その価値観に従って、そこで求められていた「学力」を身に着けるには、座学ができる、ということが必要だったわけです。
そしてそのような世界で生きていくための修行として、遅くとも小学校入学時には「椅子に座っていられる」ということが重視されるようになります。

ですから、発達の障がいを持ったお子さんで、椅子に座って課題をこなせない場合、ご両親はそのことでとても焦られたりするわけですね。それで、「椅子に座る訓練」が求められることにもなります。

そう考えれば親御さんがそれを重視されるということは理解できることです。問題は子ども自身に視点を移した時に、その子にとってそれがどういう意味があるのだろうか、ということになります。

平均的な発達をたどる子どもであっても小学校の低学年の段階で「出世」などの大人の世界の価値観から、そのために「頑張る」と思える子はまずほとんどいないでしょう。この時期に「頑張れる」のは、素朴にそれによって大人から褒められたり、周りの子と同じように振舞えることに価値を感じたりするからだと思います。それが子どもにとっての頑張りの意味になりますので、その意味を感じられる限りは頑張れることになります。そして実際、座学をするにはそれが便利なので、勉強はしたい、という気持ちがあれば、意味を感じられます。

逆に言うと、たとえば知的な発達がゆっくりで、大人からそういう点で褒められることの意味が伝わらなかったり、他の子と同じようにできることにあまり関心が無かったり、あるいは勉強の意味が分からなかったりすれば、「無理して座っている」ことに意味を感じられませんから、単なる苦痛になってしまいます。

知的な発達は平均的あるいはそれ以上である場合でも、「他の子と一緒のことをする」ことに意味を感じないようなタイプの子ども(発達障がいの子どもにもしばしばあります)の場合、同じように頑張ることが単に苦痛になってしまう可能性があります。

この点でとても面白いエピソードがあります。年齢はもう少し上で思春期の話なのですが、ADHD(アスペルガー傾向を伴う)という診断を大人になって受けた方から聞いたお話です。彼もやはり小学校時代など、行儀よく机に座っていることができず、床に寝転がってみたり、といった、ADHDの子などによく聞くことをしていたそうです。

ところがある時から、それをすっとしなくなったというのです。その理由がとても面白いものでした。「女の子にもてたいと思ったから」というのです。

そういう理由で「改善」されるのだとすれば、それは「甘え」であって、「しつけ」の問題だ、という考え方もあるでしょう(※)。けれどもここではもう一つの大事な側面に注目したいのです。それは「頑張ってそうすることに意味を見出せるかどうか」ということが、こんな形で作用したという側面です。

何に意味を感じるかは人によって、時期によって、社会によって、あるいは時代によっても異なります。ただ、頑張るべき時間が長くなればなるほど、そのことに意味を強く感じられなければ頑張りは続きません。意味を感じられなければ、それは自分の内側から支えられないことになるので、外側から強制されてそうせざるを得ない形になります。それは早晩エネルギーの枯渇を生み、無理な頑張りが逆に自己をむしばむ結果になるでしょう。

訓練には頑張りが必要です。年齢が上がるほど、頑張りを求められることは増え、生きていくうえでその力も必要になってきます。そして頑張るには前提としてそれが自分に可能な範囲のことであることが必要で、そこはその子の発達的な力がどこまで来ているか、ということが大事なポイントになります。さらにそうすることに意味を感じられることが必要です。年齢が大きくなるほど、その意味の役割は大きくなります。

ということで、小学校に入る「から」訓練が必要、という考え方はなりたたないと私は考えています。問題はその子の発達レベルからいって、それが可能な段階に入っているかということ、そしてそこに意味を見出せる力やそれを支える関係が成り立ってきているかどうかなのだと思うのです。

※ 1994年ごろ、上海の仏教寺院が作っていた、障がいを持つ孤児の施設を見学したとき、見たところ多動や自閉の子どもたちがみんな椅子にちゃんと座っていることに驚いた経験があります。私が見せてもらったときにはただ座っているだけで、それ以外に特に何をしているわけでもなく(もしかすると給食を待っていたのかもしれませんが)、多動と思われる子は椅子に座りながら体を前後に大きくゆすったりしていました。日本ではそういう知的障がい児にただ椅子に座らせておくといったことはまずありませんし、だいたいそういうことが可能とも思っていなかったので、私は「かわいそう」と素朴に思ってしまったのですが、フランスで学んだことのあるある小児精神医学者の方に聞いたところ、フランスでもそういう子どもたちもちゃんと座っていられるということでした。
そういう例を考えても、座学に意味を感じることがなくとも、大人の対応の仕方次第、訓練次第で子どもがそういう姿勢をある程度取り続けられるようになる、ということは間違いないことです。これは個人がどうというよりも、その社会が全体としてどういう信念を共有しているか、ということが重要な意味を持っていて、その社会的な信念の在り方が、子どもの姿に反映しているのだと考えられます。だからそれを日本でそのまま実現できるのかというと、それはそう単純なものでもありませんし、そもそもその必要性を認めるかどうかも大きな問題です。たとえば「こどもがつらそうにしている」ときに、親が「それでもどうしてもがんばらないとだめだ」という信念を持つか、「そこまで無理させるのはかわいそう」と思うか、その親の感じ方に子どもは影響されます。この点についてはまたおいおい考えてみたいところです。

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