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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.09.26

じっと座っていられない

ADHD傾向の子どもでよく問題になることに、教室でじっと座っていられない、という話があります。

就学前の子どもたちの療育支援でも、保護者の方からちゃんと椅子に座って授業が受けられるようにしてほしい、という要望が出ることがしばしばあります。このままでは学校の授業についていかれなくなる、とか、ほかの子と違ってしまうということを心配されるからでしょう。

なぜ座っていられないのかについてはいろんな原因が考えられるので、座っていられないことをすごく問題視すべきなのか、それよりももっと優先すべき大事な課題があるのか、といったことについては具体的なその子の状態を見ないとわかりません。

たとえば知的発達が2歳前の段階だったとすれば、仮にその子の生活年齢が6歳であったとしても、ある程度以上の時間じっと椅子に座っていることに意味があるとは思えません。たとえば「ご飯を食べるために」というように、その子自身にとっても意味のある場面でなら、座っていることも可能になる可能性がそれなりにありますが、わけのわからない課題、興味がない課題をずっと提示されていたのでは、そこに意味が生まれないので、そこから逃れようとするのも当然かと思います。

これに対して知的な発達が年齢並みでということになると、就学時のころには課題への興味も持続しやすくなっているはずですし、もしその課題を行うためには座っていることが必要であれば、そんなに大きな問題なくじっと座っていられる可能性はあると思います。

ただ、そこでも問題は「座っていることにその子が意味を感じられるか」というあたりでしょう。

実際、単に勉強するだけのことなら、寝っ転がっていたってできます。私も本を読むときは寝っ転がっていることがよくあります。その方が読みやすく感じることもあります。文字を書くときやパソコンを打つときには座ってないと疲れてしまうので、そうすることが普通です。ちょっと何で読んだか記憶があいまいなのですが、平安時代のお姫様たちも、寝っ転がって絵をかいたりとか、今でいう「お行儀よく学ぶ」というのとは程遠い感じがあったりもしたようです。

講義中とか研修中にペットボトルの飲み物を飲んでいいかどうか、ということについてもいろいろあって、私の若い頃は「ありえない」という感覚でした。けれども今はかなり普通になってきていて、私も特に強い抵抗感がありませんし、自分も飲んだりします。

以前ある短大で担当の先生の都合で代わりに非常勤でゼミ授業の担当のお手伝いしたことがありました。わりに自由に話をしてもらう感じで進めましたが、一人のギャル系の女の子が私の目の前でおにぎりを食べ始めたんですね。これには私もショックを受けて、その子の目をじっと見ながら、「さすがにそれやばくない?」と言ったら、すっと恥ずかしそうな顔に変わってそそくさとそれをカバンにしまいました。ああ、こういう感覚は共有できるんだなと面白く思ったことでした。

お行儀のラインみたいなことは、「これが絶対」というものが最初から決まっているというより、その時々で「これが普通」という感じで決まるものです。だから地域によって、家庭によって、時代によって、「行儀」の基準が変わっていきます。今の時代で「畳のヘリを踏む」ことにやかましく言われることはもうほとんどないのではないでしょうか。でも昔は相当やかましく言われる行儀でもあったように聞きます。

そういえば、江戸末期の生麦事件でしたか。薩摩藩の大名行列の先頭をイギリス人が馬で横切ったことで、無礼者として切り捨てられた事件がありました。状況次第では「礼儀」は命がけの問題になります。

今の学校では「ちゃんと座って授業を聞く」という態度は一般的には必要と考えられているのだろうと思いますが、最近はこれがだいぶ緩んできているようにも思います。だから、「特性のある子には離席もある程度認める」みたいな配慮が広がり始めていますよね。

これも面白い話があって、中国の学校はごく最近はまただいぶ変わっていると思いますが、基本的に学校の授業では行儀がよくなければならず、その厳しさは日本の比ではありません。先生の話を背筋を伸ばし、後ろに手を組んで聞く、といった姿勢は「当たり前」のことでもありました。私から見てあまりに窮屈に感じて子どもたちがかわいそうに思っていたのですが、あるとき中国政法大学の友人の片成男先生が自分の体験としてこんなことを教えてくれました。

あの姿勢について、学校の先生はたとえばこんな風に説明するそうです。「ほら、こういう格好をしてご覧。そうすると、お勉強がとてもよく頭に入るよ」

それを聞いて、ただ子どもたちを厳しく統制しているだけに見えてしまっていた私はとても面白く思い、自分の見方の偏りを自覚できたのですが、ここでも大事なのは「その子に意味を感じさせられるかどうか」ですよね。

その片先生が日本に来た時、ある日本の付属小学校の授業の見学をお願いして見せてもらったのですが、その様子を見て、片先生が目を丸くして私に小声で「これは学級崩壊ですか?」と聞きました。たしかに離席する子が1,2、名いたりはして、わりと自由な雰囲気の授業でしたが、全体としては先生がちゃんとクラス全体を把握して授業を進めているように私には見えていたので、それがまたとても興味深く感じられたことでした。

「何を正しい礼儀として共有するか」はほんとに様々なので、私自身は「どんな場合でもこれが絶対」というのはなかなか言えないのですが、最後にひとつだけ、鈴木領人さんから教えてもらった面白いエピソードをご紹介して、このなんの結論もない記事(笑)を終わります。

鈴木さんはアスペルガー傾向を伴うADHDとして診断された方ですが、小学校時代、授業中に行儀よく座っているのができず、後ろで寝っ転がったりといったことをよくやられていたようです。当然先生やご両親などはある程度は注意をされたのでしょうが、全然効果がなかったわけでしょうね。それがある時を境にピタッとやんだのだそうです。

その理由がほんとにおもしろかったのですが、「女の子にもてるにはそうしたほうがいい」といったことを思ったからだそうです。つまり彼にとって本当に納得できる「意味」がそこに生まれたというわけですね。

その人自身が実感できる「意味」がそこに生まれ、人との間にその「意味」が共有できるかどうか、ということが大きな問題なんだろうなと、そんなふうに思いました。

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コメント欄

  1. 515 大内雅登 515 大内雅登

    先日、あるセミナーに参加したとき、前のテーブルにこの道40年の療育者と、ある公立小学校の養護教諭が座られました。
    おふたりとも面識がある私を含め、3人であれこれ開始前の雑談に興じていたところ、ベテランの療育者の方が「小学校では座ってないといけないから、それを教えなくっちゃね」と話されました。そして、養護教諭がうんうんと力強く頷(うなず)いたのです。私は驚きました。
    だって、その前日にベテランさんから無理やり座らせる必要のなさを聞いたばかりでしたから。
    そして、2年前一緒の学校で過ごしていたときに、その養護教諭が座れない児童と一緒に歩きながらお勉強をしていたのを見ていましたから。
    無理に座らせる必要なんてない、と思っていても座れるなら座っていた方がいい。そういうものかもしれません。

    かつてミスター偏差値と呼ばれた寺脇研氏が文科相のときだったか、その前だったか「学校には無理して来なくていい」と発言したことがありました。氏の真意は、ギリギリのところまで来ると絶対に大人は「来なくていい」と言うに決まっている。苦しんでいる子に対して、先に言うかギリギリで言うかの差だ、ということらしいのですが、着席もそういうことだろうと重ねるように思い出しました。
    どうしても座れない子がいたら、先のおふたりも座らなくていいと言うに決まっています。でも、それを先に出すのは、はばかられたのかもしれません。
    はばからなければならない相手は、昨日も今日も会って軽口がたたける3人のメンバーではなく、「座っている方が望ましい」と思っているご自身だったようにも思えます。

    1. やまもと やまもと

      このエピソード、色々考えさせられます。

      私が思ったのは、多分大内さんか注目されたことと重なると思いますが、このベテラン先生が「無理やり座らさなくてもいい」と言われたのは、「てもいい」であって「てはいけない」ではないということなのでしょう。

      この先生もご自分が研修に参加されているときに、立ち歩きはされないはずです。されないというか、きっとその事にからだに染み付いた抵抗感を持たれていて、「できない」と言った方がいいのかもしれません。

      ただ、そのご自分の感覚で子どもを決めつけ、何がなんでもそれに従わせるようなことはできないと、たぶん長い療育経験のなかで身に染みて思われている。

      そんな風に「座れた方がいい」という素朴な思いと、「無理に座らせることはいけない(意味がない)」という思いと、その矛盾するような二つの思いの間をいつも揺れ動きながら生きていらっしゃるのではないかと感じます。

      ですからご自分が講師などの立場で「障がい児のことをよくご存じない」方たちを相手にするときは、「無理に座らせてはならない」ことが強く意識されてそのように語られるのだけれども、逆に自分が受講者の立場で「無理に座らせてはならない」と語られる立場になると、自分の中のもうひとつの思いが強く意識されてきて、「小学校では‥‥」という風に話したくなる。

      大内さんが言われる二律背反の話にも繋がるのかもしれませんが、矛盾した両方の想いを抱えて、それにどう折り合いをつけていいかはご自分自身も見えない状況のなかで、その一方が強調されるように感じる場では他方を語りたくなる、ということが起こっているように思いました。

      もしそうだとすると、自閉系の方がしばしば定型から見て極端な言い方をされて、定型から攻撃されるということも(子どもの頃には相手が気にしていることをズバッと言ってしまって回りから怒られるような場合もそうです)、同じ状態が根っこにあって(そこは共通)、ただそれを言葉にして語るときに定型との違いが生まれ、定型から排除されるということが起こるのではないかと思いました。

      この点はまた別の記事で改めて考えてみたいと思います。