2019.10.15
苦手を補う力ともうひとつの発達
人間はある働きが障がいされたときに、別の働きでそれを補う力を持っています。
例えば生まれながらに両手が使えない人が、足をまるで手のように使って生活している姿を映像などで見たことのある方も多いでしょう。足だけでご自分の赤ちゃんのオムツかえなど一切の世話をしているお母さんの様子を見たこともあります。
以前、河野泰弘さんという先天的な視覚障がいの方と一緒に研究会をやったり、私と青山学院大の高木光太郎さんが編者になった本に、著者として参加していただいたことがあるのですが、視覚障がいの方の移動の能力も驚くべきもので、歩いていて左右の建物の様子が変わることに気づくなどは朝飯前という感じです。
先天性の視覚障がい者の場合、歩いている先に足がつまずくような障害物があることもわかったりするそうですが、何でそんな超能力みたいなことができるかというと、足音が響いて障害物に当たって跳ね返ってくる音を聞き分けているということのようです。ちょうどコウモリが鳴き声を出して餌の蚊等を見つけるのと同じ仕組みです。
ほんとに驚きですが、歩きながら目の前の障害物をスッと避けたりする様子を見ていて、一緒に歩いている人が「ほんとは目が見えてるんじゃないの?」と疑う位のすごさなんですね。まわりから聞こえる様々な音、頬にあたる風の微妙な変化、日の光のほのかな暖かみ、匂い、靴底を通して感じる路面の状態……。自分を取り巻くあらゆるものが自分が歩く世界の様子を豊かに教えてくれる訳です。
晴眼者は回りの状況を知るのに、もっぱら目に頼っています。それはとても重要な情報源ですが、そうであるからこそ逆にそれに頼り過ぎて他の色々な情報を見過ごすことにもなります。仮にしばらくの間、目をつぶって見れば、それまで気づかなかったかなりたくさんの情報に次々と気づかれると思います。視覚障がい者はそういう豊かな世界に生きているとも言えるのでしょう。
同じことが「言葉」の力についても言えると思います。人間の社会がこれほどまでに複雑で高度な発達を遂げたのは、言葉の持つ思考とコミュニケーションの力があったからに他なりません。言葉を話せない動物がシンプルな群れしか作れないのはその為なのです。社会を動かすお金というものを使って、経済が成り立つのもまた人間の言葉の力(記号を使う力)によってです。
それほど大きな力を持つ言葉だからこそ、人はものすごく言葉に頼ることになります。それはちょうど晴眼者が視覚という強力な力にすっかり頼りきってしまうようなものです。ということは、晴眼者が視覚以外の世界に鈍感になってしまうように、言葉があることによって、言葉以外の世界、言葉を使わないコミュニケーションの世界について、逆に鈍感になっているとも言えるのです。
その事を強く思わされた例のひとつが、自閉のA君とアスペルガー当事者の大内さんの間になりたったコミュニケーションの事例でした。自閉系の皆さんは、定型的な言葉のコミュニケーションに困難さ、苦手さを感じるからこそ、言葉に頼ることのない世界への感性を研ぎ澄ませ、その世界でのコミュニケーションの力を発達させていくのでしょう。
視覚と言葉には似たところがあります。それは遠くを知る力です。夜空の星を見るとき、私たちは場合によって何億年もかかって今地球に届いた光によって気の遠くなるほど向こうにある星を見ています。言葉もそんな宇宙の彼方も、あるいはやはり気の遠くなるような昔のこと、そして未来のことを語り、人と共有する力を持ちます。その力に取り込まれてしまい、逆に今ここの私の世界を見失ってしまうことがある。
現在、発達障がい者には定型をモデルとした発達理論とは少し違う形での発達の道筋があるかもしれないことが問題になりつつあります。その問題を考えていくときにもこの視点が鍵になるでしょう。発達障がいを当事者視点を組み込んで理解するには、そのことに改めて思いを寄せることが欠かせないと、そんなことを思います。
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こんにちは。今回も楽しく読ませていただきました。
聴覚、視覚などの障がいの副産物として、いろいろな能力が先鋭化されるという話は特に興味深く、ああそういった話を聞いたことがあるなあと思いました。また、以前、聴覚障碍者がトライアスロンに挑戦した実話を映画化したものを見たことを思い出しました。
そういえば、私自身も交通事故による受傷で体に後遺症が残っています。例えば、右手で字が書きにくいのです。そのせいか左手である程度字を書くことができます。特別な努力はしていなかったのですが、気が付いたら字が書けるようになっていました。脳内では、ある程度、無意識的にこうした切り替えのようなものができるのかなと思いながら、文章を読んでいました。
女池神明さん
楽しんで読んでいただいてうれしいです。ある意味重たい話だからこそ、逆に楽しむ気持ちが大事になるんですよね。
左手で書けるようになられたという話、大昔に勉強した(させられた(笑))「学習の転移」という話を思い出しました。先に学んだことが、似たような別の課題の学習に促進的な働きをするという話です。たとえば英語を勉強しておくと、ドイツ語が学びやすいとか。両方に共通している一般的な技術を英語で身に着けているから、それを応用できる分、ドイツ語の習得が楽になるのだということでしょう。私の場合、英語もダメだったので、ドイツ語もダメでしたので、「非学習の転移」とか(笑)。もちろんそんな言葉ありません!
同じように右手で学んだ「書字」が左手に転移した、と見ることもできるのかもしれません。あと、もしかすると女池神明さんの場合、遺伝的にはもともと左手優位だったのが、子ども時代に右手での学習を優先されたので、右手で書けるようになり、でももとの体は左手が優位なので、左手の学習は早かった、という可能性もありますね。そういう人は両刀遣いになったりします。
10年ほど昔に、盲聾重複障がいの生徒を担任していました。視覚・聴覚を使うことが困難なため、一番の手がかりは触知覚(ハプティク知覚)
の活用でした。コミュニケーション手段は、点字(指点字といって相手の手のひらで点字のタイプ6点入力を行う)と触手話(手のひらで
手話と指文字をする)でした。また、盲学校で行っている白杖の指導(歩行指導といいます)が、自立活動の指導でした。彼は、電柱なども
空気の圧力なのか、触知覚で感じるのか、普通によけて歩行していました。小さい頃は、屋内でいろいろな障害物にぶつかりながら学習した
ということです。そうして身についたものなのでしょうか?不思議な力でした。風の向きや振動などがあると指で「何」と尋ねてきます。
その都度、触手話で説明していました。「バスの振動だよ」と説明するのですが、彼の概念の中では、見たことも聞いたこともなく、触れたもの
だけが唯一の手掛かりでした。バスの乗車・ハンドルを触れること・窓のガラスの触感・走る停止経験での、バスという概念の学習です。
そういった感覚入力の積み重ねが、バスという概念を生み、乗り物のカテゴリーに分類し、生活の手段ということを認知していきます。
とても時間も手間もかかる学習です。こちらから意図的にコミュニケーションをとらなければ、触知覚以外、自分では自然には入りません、だから
いつも説明していました。彼の概念獲得には、重要な他者の存在として欠かせないわけです。そういった中で、盲・聾・重症心身障害の子の
療育経験は、発達障がいの子の支援に非常に役に立っています。そういった広い分野の経験をすることも大切になるでしょう。
湖西さん
コメントありがとうございます。
ヘレンケラーみたいですね!ただ、ヘレンケラーの場合は乳児期のエピソードを見ていると、基本的にはそのころは目も耳も働いていて、そこで言葉の基本は身についていたみたいですから、実はサリバン先生によってはじめて言葉を獲得したのではないのですね。ただ、サリバン先生とのコミュニケーションの中で、指文字を音声言語の代わりに用いられることに気づいたということなのだと思います。
その点、湖西さんが担当されたお子さんが先天的な盲聾重複障がいであったとすると、どうやって言葉を獲得できたのかはとても興味深いです。何か聞かれたことがあったら教えてください。
「彼の概念獲得には、重要な他者の存在として欠かせない」というお話もすごく大事なポイントですよね。これは彼に限らず、すべての発達の中で言えることで(スキャフォルディングなどの言葉で説明していますが)、私たち人間はすべてやって他者とコミュニケーションを取りながら世界を理解し。共有していくようになる、ということなのだと思います。彼の場合は情報のチャンネルが限定されているので、その姿がよりわかりやすく鮮明に見えてくるのでしょうね。
そういう経験を通して湖西さんが発達障がいの子どもにもその理解を応用してうまくいかれたというのは、ある意味ごく自然なことなのかなと思います。自閉の子はその他者との世界の共有の仕方に独特の特性があって、定型的な通常のコミュニケーションではうまくいかないことが多い訳ですが、それは共有の仕方が「ない」訳ではなく、「違う」と私は思うのです。ではどう違うのか、どうやったらうまくいくのか。湖西さんの経験が生きているのは、そのあたりを柔軟に探れることからではないでしょうか。
補足ですが、pcのキーボードに必ず2か所に突起「f」「j」についてます。これなんだかわかりますか?
pcの点字ソフトを使う時の6点入力用の人差し指を置く位置です。指で触れて点字入力するものなのです。
人差し指の位置というのは知っていましたが、それが点字に結び付くというのは初めて知りました。
IT関係って、結構いろんな障がいへの対応技術を開発していますよね。