はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.10.23

療育施設の役割

療育施設の役割って何でしようか?

一番に思い付くのは「遅れ」とか「障がい」に対して、専門的な知識に基づいて、家庭などでは提供できない技術を使って特別な訓練を行い、子どもの発達を促したり障がいによってできないことを「補償(別の手段で補うこと)」する力をつける場所、ということでしょう。

また間接的にレスパイト(息抜き)の役割を保護者の方に提供することが挙げられるかもしれません。子育てはいずれにしても大変ですが、障がいと言われる特性を持つお子さんの場合は、定型発達の子どもたちの保護者の子育ての仕方ではうまくいかないことがたくさんあり、どうしていいか分からない状態で必死に努力され、疲れきってしまわれることがあるので、そういう保護者の方に子どもを預けている間だけは自分の時間を持ってもらえるようにする、ということには意味があるからです。

個別の施設の役割をもう少し広く考えると、他の療育機関や医療機関、幼稚園保育園や学校、行政等、地域の関連機関と連携して子ども(場合によって家族も含む)をサポートする、という役割をこなしている場合もあります。

さて、これらはどれも「支援する側」から見たときの話でしょう。子ども自身の側からの話は、「いい支援を行うことで、子どもがより幸せになるはずだ」という形で、言ってみれば間接的に語られていることになります。もう少し子どもの側に目線を近づけて考えたらどうなるでしょうか?

これは私が研修などで各地の療育施設を回ってそこのスタッフや保護者の方にお話を聞いていると時々語られることなのですが、施設に通うようになってから、子どもが急に笑顔が増えたとか、積極的になった、関心の幅が拡がったなど、子どもによって色々ですが、とにかくそういう変化が見られたりします。もちろんすべてのケースではありませんが、決してまれというわけでもありません。

通い始めてまもなくのことですから、何か特別の訓練の成果というわけではありません。一般の施設で設備も最新のものすごいものが揃っている、というわけでもありません。(もっともそんなものがあるわけないですが。下川客員研究員に教えていただきましたが、アメリカの自閉症療育のプログラムとして有名なTEACCHでは、それこそそのケースごとに一人一人に合った手作りの絵カード等を作って、その課題が終わったらもう捨ててしまうくらいです)何の変哲もない場所です。

つまり、子どもの変化の理由を探すとれば、その子どもにとってもうひとつの新しい場所ができたから、ということでしかないわけです。でもそれは大人から見れば何の変哲もない場所なのですから、「子どもにとって」どういう場所なのかが大事な問題なのだということになります。

ここで大学院生の頃に行った調査研究を思い出すんです。それは子どもにとっての家族の意味について、山陰の山村の子どもたちと、大阪の大きな団地の子どもたちに行った質問紙調査なのですが、内容はとても素朴で、病気をしたときに誰と一緒に居たいかとか、勉強に困ったら誰に相談するかとか、誰と一緒に遊びたいかとか、いろんな場面を設定して、そこで子どもが大事にしている繋がりを尋ねてみたのです。

結果は実にクリアでした。思春期に入るまでは、団地の子どもはほとんどお母さんに相手が集中します。それが思春期に入ってからは友達に切り替わっていく形です。ところが山村の子どもたちは最初からおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん等々、色んな人にたよって生きているんです。

その結果を見て、私は団地の子もお母さんもかわいそうになりました。もう二人の閉じた関係のなかですべてを処理しなければならないのですから、これほど息苦しいことはないと感じたのです。お母さんも子育てのすべてに責任を負わされて、ほんとうに大変だと思います。お互いに逃げ場のない状況に生きる訳です。

地方の大家族などの場合はそういうわけで少し違うかもしれませんが、発達障がいのお子さんを育てている保護者、特に主婦をされているお母さんの場合、子どもを孤立して育てる状況になってしまうケースが少なくないように思います。

そういう、言ってみればぱんぱんに張り詰めた緊張感の中で子どもと向き合わざるを得ないとき、当然子どももまたその緊張感の中に生きざるを得ないことになります。それで療育施設は、そういう息詰まった状況を少しほぐしてくれる場所にもなりえているのだろうと思うわけです。

不登校のADHDの子が登校する」でご紹介させていただいたA君も、「自閉の子が言語的コミュニケーションを獲得する瞬間」でご紹介したA君も(あ、同じ名前になってますが、もちろん別人物です(笑))、そういう場としても施設が機能したことは間違いないでしょう。

そこには保護者とは違う大人がいて、家族とは違う空間を一緒に作って共有してくれます。当たり前ですが、そこにいる支援スタッフはお母さんでもお父さんでもなく、性格も感性も考え方も違った人ですから、保護者とは違った付き合い方をしてくれるし、自分について家族とはまた違った接し方をしてくれます。残念ながらスタッフとお子さんの相性が合わなくて困ることも全くないとは言えませんが、そうでない限りは家族と違う形でちゃんと自分と向き合ってくれる大人がいる、ということ自体、子どもにとってはとても大きなことなのだろうと思います。(※)

人間関係が密だったころは、そういう「家族以外に付き合ってくれる大人」に出会う機会が今ほどには少なくなかったことだろうと思います。そんなふうにいろんな大人と出会う機会は、子どもの世界を広げてくれます。家族は子どもにとって大事な「足場」となりますが、けれども同時にその中に閉じこもってしまう状況の中では逆に「足枷」にもなりうる。その危険性を減らしてくれる場としても、療育施設が働く場合が多いのだろうと、そんなことを思うのでした。

※ 学問的にはここが文化心理学とか社会文化心理学等と名付けられる領域の視点がとても重要になるところです。私たちはこの視点を組み込んだ発達心理学を文化発達心理学と呼んでいます。この視点では、心理やその発達を個人の内部に生じる変化とは考えません。もちろん個人の内部にも変化が起こるのですが、それは他者との関係のなかで起こるもので、発達はその中で生み出され、展開し、個人の変化を生むと考えます。
例えば母子関係を考えてみると、お母さんは子どもを生んだときからすぐに「お母さん」として子育てできるわけではありません。夜泣きがやまない子どもに振り回されて、どうしたらいいかおろおろしながら一生懸命頑張ってなんとか子どもと折り合いがつくところを探しながらお母さんになっていきます。子どもはそういうお母さんとのやり取りの中で、やはり折り合いのつくところを探しながら発達していく。同じことはお父さんの間でも、兄弟姉妹の間でも起こります。
つまり、子どもはお母さん等周囲の人との関係のなかでその子なりの発達の道筋を作っていくわけです。お母さんもまた子どもとの関係の中で、お母さんとして発達をしていく。お互いに育ちあうのです。ですから周囲の人たちとの関係が変わると、子どもに変化が起こるのは当たり前です。そしてそのお母さんの変化は、お母さん自身がまた周りの方たちと作る関係の変化によっても生じるわけです。
療育という働きかけは、テクニックというところに注目が集まり勝ちですが、基本の仕組みは全くそれと同じです。そこでは大人(療育スタッフ)が、他の大人たちと少し違った働きかけをしてくる。それは多くの場合、障がいの特性に何らかの点で噛み合いやすいところがあるので、他の人とは少し違ったやり取りの仕方が療育者と子どもの間に成り立ち、そこでその関係をベースに子どもにも変化が現れます。だからどんなテクニックであれ、子どもとのラポール形成は前提になりますし、その関係作りが上手いか下手かによってテクニックが生きるかどうかも左右されることになります。療育はそれ自体がコミュニケーションなのですね。良い療育とは、その子をめぐるよいつながりが作られていくことで成り立つのだと思います。

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