はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.10.21

なぜ自閉系の子が言葉遣いで怒られるのか?

定型発達者とアスペルガー者の間でしばしばその話し方を巡って厳しいトラブルになります。アスペルガー者の言葉遣いについて、「配慮に欠けている」など攻撃的な意味を定型が読み取ってしまい、対立になるからです。

私は定型の感覚で受け止めるので、そういうときはやはり「相手の気持ちへの配慮にかけた言葉遣い」とか、「攻撃的な言葉遣い」と感じ取ってしまい、「何でそんな言い方をするの?」と問いかけるのですが、むしろ相手の人にキョトンとされてしまったり、「あなたの方こそなぜそんなに攻撃的に私を責めるのか」と逆に言われて頭のなかが「?」だらけになることが繰り返されました。

繰り返しそういう経験をするなかで、そういう方たちにはどうやら悪気や攻撃的な気持ちは無さそうだ、ということがだんだんと頭ではわかってきます。

でも頭では「そうかもしれない」と思っても、そういう言葉遣いにこちらの気持ちは瞬間的に傷ついてしまうので、本当にその事を納得できるわけでもありません。何しろその言葉遣いはピンポイントで狙い済ましたように、実に見事にグサッとこちらの心臓に突き刺さるので、それを「そんなつもりは全くない」と言われても、全然ピンと来ないわけです。

けれどもやはり当人はそんなつもりはないと真剣に言われる、それもまた嘘をついているようにも感じられず、とにかく訳がわからないまま、一体なんでこういうことが起こるのかを考え続けてきました(※)。

よくあるのは、要するに自閉系の人は「相手の視点に立って考えることが苦手だから、相手への配慮ができないのだ」という説明の仕方でしょう。確かに定型的な視点からいうと、そういう風に理解すればしやすいですし、当事者の方に聞いてもご自身についてそう理解されている方もあるようです。

けれどもそういう見方は私にはどうしても一面的に見えてしまいます。そういう見方は「自閉系の人」=「自己中心的」=「他人を思いやれない」=「利己的」という理解につながりやすいように思うのですが、これが私の実感として納得しがたいところがあるからです。というのは、アスペルガー系の方には、アスペルガー系の方なりの思いやりの心がしっかりあることを、いろんな場面で繰り返し感じるからです。

そこで「じっと座っていられない」に大内さんからいただいたコメントなどを見て、その理由を考えるために大事になりそうなことがひとつ見えてきたように思います。うまく説明できるかどうかわかりませんが、以下に書いてみます。

まず前提として、人の気持ちはしばしば矛盾したいくつもの思いを漠然と抱いているものだ、という風に考えてみます(※※)。

たとえば思春期に親との間によくある葛藤として、親の言うことは正しいとは一方で思いながら、それに無性に反抗したくなる、といったことがあります。それまで親のいうことをそのまま受け止め、そこから自分を作り上げてきたのに、思春期になるとその親から独立した自分を作っていきたい気持ちが生まれるとともに、親から受け継いできたものを否定したくなるわけですね。そして自分独自の世界を作ろうとする。

けれどもその親から受け継いできたものは、自分の体にもう深く深く染み付いてしまっているので、いくら否定したところでなくなることはありません。ただ、その親のやりかたの「裏」というか「陰(かげ)」というか、そういう生き方を模索したりする。ジェームスディーンの往年の名画に「理由なき反抗」 というのがありましたが、やはり親の裏側を生きようとしたとも見られます。

けれども裏は裏、表があっての裏で、逆に言えば表も裏があるから表で、表裏は常にセットになってしか成り立ちません。ですから親に反抗した子が、自分自身親の立場に立つと、それまで否定していた親のありかたをまた引き継いだりすることにもなります。(場合によって親子の反目が非常に強い時は、今度は孫が子の裏の裏で祖父に似たりもしますが)

つまり何が言いたいかというと、自分があるものについて否定的にみるとき、実はその裏にそれを肯定する気持ちがあることも多いというわけです。否定と肯定がセットになって、そのうちその時々でどちらが表に出てくるかが変わる。好きは嫌い、嫌いは好き、長所は短所、短所は長所……、似たような言い方はいろいろありますね。東洋思想では陰陽思想が典型的ですし、西洋哲学では弁証法などもその種の発想になるでしょう。

で、そういう風にある種矛盾したいろいろな思いを抱えているというのは、私は定型発達者も自閉系の人も同じではないかと思うのです。ただその現れ方が異なる。

定型発達者はアスペルガー者に比べると、矛盾したあいまいな気持ちをそのまま認めてしまう傾向が強いように思います。だからAと言いながらもその裏側のBも何となく意識していて、言い方があいまいになったりする。ところがこのあいまいな言い方がアスペルガー者は嫌いです。Aなの?Bなの?はっきりして!となる。そして定型発達者が口でAと言いながら、のちにBの振る舞いをしたりすると「ウソをついている」「信じられない」となったりもします。でも定型発達者にとってはAと言ったのは自分の気持ちの一部であって、常にそういうわけでもないんだけど、という思いがあったりするので、そこで困ってしまうことがしばしばある(※※※)。

どこでその差が生まれるのかというと、私は「言葉」で理解し、やりとりするレベルでそうなるのではないか、ということを最近強く思うようになりました。

ここでも前提として、言葉の働きのひとつを「自分の気持ちを整理する道具」として考えます。たとえば日記を書くのはそこに書かれた言葉によって自分の経験や気持ちを整理していくことです。カウンセリングでカウンセラーに話をするのは、やはり言葉によって混乱した気持ちを整理していくことです。箱庭療法などでは言葉ではなくいろいろなアイテムによって気持ちを整理していきますが、それもまた似たようなことになります。自傷が激しくなった発達障がいの子が、言葉の獲得と共にぐっとそれが減ることがあるのも、同じ理屈で理解できます。

この、自分の気持ちを言葉で整理していく、そのプロセスに、定型発達者と自閉系の人の違いが生まれるのではないか、そんなことを考えてみるわけです。

なぜかは私にはわかりませんが、自閉系の方はひとつの言葉に複数の人の視点を織り込んでいくことが苦手です(そういう問題について浜田寿美男さんが動画講義の中で興味深い話をしてくださっています。「自閉症を考える」)。それで気持ちの上では矛盾したことがある時にも、言葉にするときにはシンプルにある一つの見方からの表現になりやすい。あいまいさは非常に気持ちが悪いので、言葉は明確な意味を持ったあいまいさのないものを追求することになる。

これに対して定型発達者はその矛盾した意味をどちらも組み込んだ形で一つの言葉を語ったりする。「AとBとどっちがいい?」と聞かれて「Aもいいねえ」などと答えるとき、別にBを捨てているわけではありません。そういうあいまいな答え方は自閉系の方には嫌われやすい。

このあいまいな言い方を定型発達者は人間関係の配慮としてもたくさんするように育っていくので、場合によって「A」と感じているときも「B」を強調したりします。かといって「B」ということが全くウソというわけでもなく、そういう気持ちもあると思っています。逆にこの時「A」とだけ言ってしまうと、相手の気持ちを考えず、傷つけることにもなる場合があると、そういうことをよく考えているわけです。

ところが自閉系の方は漠然とした思いの中ではAもBもある場合でも、言葉にして表現するときには曖昧さを表さず、メインで感じている「A」をストレートに断言したりする。それは自分としては正直に語っていることなので、悪意があるわけでもなんでもありません。そして実際その「A」という言い方で言われた定型発達者が傷つくのは、実は本当は自分も「A」であることを気にしていて、あえて触れないようにしていたりするから、という場合が多い訳です。あえて触れないようにしていることをストレートに言われるから激しく傷つく。

という風に考えてみると、つまりはこんなことになりそうです。

出発点として矛盾したいろいろな思いを抱いていること自体は両者でそんなに変わらないけれど、定型は気持ちを言葉にするとき、その矛盾した思いの両方をある程度意識しながらその言葉を使うことが多く、対人関係の中では自分が思っていることをストレートに言わないことで相手を傷つけないようにし、関係を穏やかにしようとする工夫を常にしている。それが人としての「配慮」「思いやり」の関係になる。

これに対して自閉系の方は言葉にするときは一つの視点からの明確な言葉を好み、矛盾した思いが仮にあっても、自分にとってその場でより重く考えるどちらかで断言する形の表現になりやすいし、それが正直な態度で、そうしないことはかえって不誠実ともなる。ところがその言い方が、相手の定形にとっては「見たくない」「意識したくない」部分をストレートに突かれた形になることがあり、そこで激しく傷つきやすいことになる。

そんな図式がありそうな気がします。引き続き整理して考えていきたいところです。

※ 新行動主義の条件付け学習理論の枠組みで考えると、たぶんこれは「誤学習」のひとつとして理解されるのかなと思います。つまり、ある状況(刺激)にたいして間違った反応(アスペルガー的な言葉遣いの仕方)を学習してしまったのだ。だから適切な強化子(行動を変化させるために用いる賞/罰あるいは好子/嫌子)を使って、誤学習された反応(言葉遣い)を消去し、あるいは正しい言葉遣いを学習させる、という発想です。
人間を含む動物は、自分にとって都合の良い(利益になる)結果を得るように、そして都合の悪い(損になる)結果を避けるように行動を変化させていく、という強化学習(あるいは条件付け学習)の仕組みを持っていますので、その仕組みを利用する考え方です。
このシンプルな発想は使い方によって応用範囲も広くなるので、一種の強力な行動コントロールのツールになるのですが、そういう理解の仕方だけでは追い付かない問題も、特に人間のように言語的(記号的)思考を含む複雑な心理過程を持つ主体の場合は当然あります。
ここで取り上げている問題も、それを「誤学習」として理解して対応するやり方はある範囲では可能です。たとえば「そんな言い方をしてはいけません」と叱るとか、適切な言い方を教えてその言い方ができたときに誉めてあげるとか、そういう工夫である程度調整できるところもあります。「礼儀」としてそれを教える、という形で理解をさせることも一定程度できるでしょう。
けれども、その見方ではこういうアスペルガー者の行動の「意味」が見えてきません。人は意味理解によって行動を組み立てていく、という視点に立つと、仮にその「誤学習」が矯正されたとしても、その行動の本当の理由が周りにも本人にもわかっていないため、同じような「失敗」をそれ以降も形を変えて繰り返してしまうことになります。そうするとアスペルガー者は永遠に定型の手によって似たような形で生まれ続ける「誤学習」を矯正され続けなければならない、ということにもなりかねません。(SSTが応用場面でうまく機能しないということがよく問題にされる原因も、同じ理屈で理解可能です)
ここではそういう外形的な行動ではなく、なぜそのような行動が生み出されていくことになるのか、なぜそれが定型発達者には「悪い行動」として理解されるようになるのか、その表面的行動の背景の仕組みを探ろうとしています。

※※ この状態を「両義性(ambiguity)」という概念で考えることもできます。鯨岡俊さんやそのお弟子さんの石野秀明さん(ともに発達心理学者)たちは、人の発達、特に他者との関係の中での自我の成立の中で、そこに両義的な関係が成り立ち、それを取り込む形で自我が形成されるということを重視します。(たとえば石野秀明2001「2〜3歳児の子どもの存在/自己のありようを記述する試み : 主体間の両義的な力動的関係という観点から」発達心理学研究, 12, (2) 110-122)
また、片成男さんはお小遣いの理解についての発達の中に、親の声と自らの声が自分の中で緊張関係をもって対立しながらそれらの関係の中で自分のお小遣い理解が成立していく、ということを、やはり両義性の概念で説明しています(片成男2016「おこづかいの意味づけの中に親子関係の両義性をみる」高橋・山本編「こどもとお金」第8章,東大出版会)

※※※ 特に日本に多い人間関係はその傾向が強いですね。はっきりと言わない。この点アメリカ人(一般的にイメージされる白人)も中国人(主に漢族)も逆で、程度の差とも言えますが、基本的にははっきりものを言います。もちろんそれぞれの仕方で「本音」と「建て前」の使い分け方も持っているわけですが、主張の仕方としてはものすごく立場をはっきりさせるのが基本でしょう(その点ではそちらの方がアスペルガー者にとっては生きやすい面がある)。

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