はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.12.15

ADHDの見方の揺れ動き

「発達障がい」というものは、別にそういう固定的なものが確固としてあるとは考えられません。ここでは細かくその理由を述べることは避けますが、ごく大雑把に言えば、たとえば腸チフスの原因がチフス菌であるような、特定の原因が特定されているわけでもないですし、そもそも発達障がいの三つのカテゴリーである「自閉症スペクトラム障がい」「注意欠陥(欠如)・多動性障がい」「(限局性)学習障がい」は全く異なる特性で、最初から一つの原因を求められるわけもありません。行動の特徴から診断する医学的な定義も、DSMⅤでは「アスペルガー症候群」という概念自体がなくなったように、変動し続けています。だいたい同じ人に対しても、お医者さんで判断が異なることもあるように、診断もそんなにきっちりと決まる性質のものでもありません。

ひとつだけある程度確からしく思えることは、とにかく身体的な障がいや、知的障がい(ただし行政的にはこれも発達障がいに含めた対応がされていますが)、統合失調症や気分障害や人格障害などの精神障害とは違うんだけど、でも心理的にあるいは行動上に発達途上で困難が立ち現われてくると見える人たちがいる、ということでしょう。

ただ、そういう見方さえ、たとえばADHDを考えてみると、最近大きな揺れが起こっているようでもあります。たとえば最近の「そだちの科学no.32」(日本評論社)の「発達障害の30年」という特集に掲載されている「注意欠如・多動症(ADHD)」という文章の中で、田中康雄さんが冒頭からいきなり

正直に言おう。僕は、以前と比べて注意欠如・多動症(ADHD)の診断と薬物療法において、かなり慎重、いや臆病になっている。(p.40)

と書かれ、さらにいろいろその理由を書かれた後、まとめでまた

正直に言おう。ADHDだけでなく、発達障害全体において言えることではあるが、僕は以前と比べ、診断することにためらいがある。対峙する相手との二者関係づくりに腐心し続けている。その中で今更ながらであるが、時に診断をする行為が、キュアを目指すために、ケアを妨げる場合もあると感じ始めている。(p.45)

とされています。

ちなみに田中さんの解説では、ここでキュアというのは、「疾患を完治させる」方向を意味し、ケアは「病い=障害を抱える人」に対する全人的なアプローチをすることで、精神科領域ではキュアからケアへの力点の移動が進んできています。客員研究員の榊原洋一さん(小児科学)も「支援は治療ではない」ということを言われていますし、この流れはおそらく底辺では確実に進行しつつあるのでしょう。当然(?)これまでの研究所の姿勢もそちらの方向で進められています。(※)

そこで田中さんがADHDという概念そのものを揺るがす最近の研究として紹介されているのは、2015年のフィットさんたちの研究です。38歳のときにADHDと診断された成人のうち、子ども時代に同じ診断を受けていたのはわずかに10%だけだったそうです。2016年のアグニュー=ブレイスさんたちの双子を使った調査や、ケイさんの2016年のデータでも、同じ傾向の結果が得られています。

つまり、いまの診断基準で考える限り、「ADHDは先天的な特性で、発達の過程で子ども時代に明らかになるもので、大人になるにつれて(多分経験によってコントロール法が身に付いてきて)落ち着いてくるケースも多い」、という、基本的な見方が崩れてしまうのですね。

もちろんそのようになる原因の一部は、子ども時代に診断を受けそこなっていたり、十分な診断を下されていなかったりという可能性もあるわけですが、田中さんの臨床経験からの感覚では、そうではない例がたくさんあると思われるといいます。つまり、実際に子ども時代にはADHDと診断する必要がなかった人が、いくつかの理由で(田中さんは三つ列挙されています)大人になって診断基準を満たすような状態になった、と考えられるわけです。

田中さんの挙げる三つの理由のうち二つは、これも私が研修で強調してきたことにつながりますが、子どものうちは問題として捉えられなかった(とらえる必要がなかった)ADHD傾向が大人になって問題化されたからというものと、大人になってから日常生活の中できつい環境になり、診断基準に達する適応障がいとしてもとからあるADHDが強く出てきた場合です。

つまり、ここで見えてくるのは、自閉症スペクトラム障がいが「境目のないスペクトラム」として捉えられ、「定型」と「自閉」の間に明確な線引きができなくなったのと同様、ADHD傾向もまた「臨床域」の状態と、そこまでいかない傾向のようなものがあって、それがその人が置かれた環境によって強く出たり厳しく見られればADHD診断となり、そうでなければ診断が下りないという違いだという話になります。

榊原洋一客員研究員は、一般向けの発達障がいに関する解説本の一大ベストセラーである「図解:よくわかる発達障害の子どもたち」(ナツメ社)の中でこんなことを書かれています。

ADHDの子どもでは、多動性という行動特性がみられますが、同じ程度の多動性であっても、寛容な人には「活発な性質」ととらえられ、きびしい目で見る人には「過度の落ち着きのなさ」に映ります。
これは、ある個性や性格の人を「許せない」と思う人もいれば、許容できる人もいることと似ています。発達障害の特性は、こうした「個性」や「性格」に近いものと考えられます。

結局同じ性質のことを言われていることになりますね。

これは単に理屈の話ではありません。発達障がいへの社会的な対処の仕方の問題に現実に大きな影響を与えています。それがとても分かりやすくはっきり出てきていると考えられるのが、「支援級に外国籍児童が著しく多い」という現実です。

長くなりそうなので、この話については改めて書いてみたいと思います。

 
※ というより、そもそも発達障がいという問題は、医療の枠だけで判断し、対処できる範囲を最初から大きく超えたものなのだ、という現実から柔軟に見つめなおすことが大事だと考えているわけです。ちなみにそういう大きな観点も含めて問題を根本的に見直そうとする話を、やはり客員研究員の浜田寿美男さんが同じ特集の冒頭論文「『発達障害』はどこからきたのかー『発達障害』という見方にひそむ落とし穴」で展開されています。

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