はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.01.05

今年もよろしくお願いいたします。

当事者、家族、支援者、教育者、研究者等、発達障がいにかかわる問題に、それぞれの異なる立場や視点から関心を持ったり悩んでいる方達が、お互いの感じていることや考えていることを交流して、これからの発達障がいについて、多面的に考えていくまちとして作られたはつけんラボです。

まだまだ手探りで進めているところですが、例えば当事者の方の文章は、「えっ、ほんと?」と驚いたり、「そんなんあり?」と面食らったり、「何でそう考えるの?」とそのわからなさに戸惑ったり、改めて定型的な経験や感覚では気づくことが困難なさまざまな思いに出会うことができてとても刺激的です。

療育支援に関わっている方の文章からは、迷いながら頑張って子どもに向き合っている皆さんの思いがよく伝わってきますし、家族の方の文章からは「普通」に頼ってはちゃんと向き合えないお子さんを授かったことの戸惑いや、その事で傷つく経験、それらを乗り越えながらお子さんと一緒に生きていく道を模索する過程を教えていただけます。

「障がい」は「健常」と比べて「特種な問題」と感じられやすいと思いますが、実際障がいの問題に向き合って頑張って考えていくと、結局は障がいと健常という小さな枠を越えて「人間ってなんだろう」という問題に入っていくことになる、というのが私の素朴な経験です。障がいを考える、障がいに向き合うということは、つまりは人であることを改めて考え直し、人に向き合うこと、人と繋がることの意味をもう一度考えることになるのですね。

そう考えると当事者を含むいろんな方たちとこの問題を一緒に考えていくことは、何と創造的で生産的なことなのだろうと思います。こんなに魅力的な問題を見過ごして生きるってもったいないですね(笑)

私は大学と大学院の時代に京都に10年近く住みましたが、京都はご存じの通り794年から1870年頃までの1000年余り、形式的には日本の首都として(実質的には江戸時代や鎌倉時代は関東でしょうか)、文化の中心とされていました。

なぜ京都がそうなったかという話を日本史の研究者から聞いたことがあるのですが、京都は常に地方から人が入り込んで、その人たちが次々に新しい文化を生み出していったからと言います。

別に古いものを守り続けてきたからという話ではないんですね。もちろん古い京都人やその文化が安定した核にはなったのでしょうが、外部から常に「田舎のひと」を受け入れ続けて活躍させる、ということで創造的な命を永らえた訳です。

ところで文化というのは異なる人との間で美しいもの、魅力的なもの、価値あるものを共有する仕組みです。それが共有されることで異質な人たちが繋がることができます。

逆に言えば文化が共有されないということは、異質な人たちが異なる生き方、異なる価値観、異なる美意識を持っているので、そのままではお互いに理解できず、共に生きることが困難になります。

そういう異質な人々が共に生きる努力をするということは、そこでお互いに共有できる価値、美意識を模索していくことに他なりません。そしてそれが生み出されていくときには、それまで自分が持っていた文化を見直し、異質な相手とも共有可能な形に発達させる必要があります。

その時、小さなわくの中で生命を失いかけていた文化は、新しいより大きな世界で生まれ変わり、命を吹き返すわけです。

発達障がいの問題は、定型発達者にとってはそれまでのちっぽけな定型文化の枠を越えて、発達障がい者にとってはそれまで無理に押し込められていた定型社会の小さな枠を越えて、新しい文化(共に生きる形)を生み出していく場なのですね。

もちろんそこにはたくさんの産みの苦しみがあるのですが、それに見合う大事なものがその先に生まれてくる。そう思います。

はつけんラボもそんな創造の場のひとつとして、皆さんの積極的な参加によって、ますます拡がっていってほしいなと思います。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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