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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.03.23

新型コロナウィルスのこと

発達障がいの問題そのものというより、今後の世の中の動きについてちょっと思うことから始めます。

ビートたけしがテレビで「50年後から振り返ると、今が世界の大転換の始まりだったということになる気がする」というようなことを言っていました。

まあそうだろうと思うのですが、その大転換は実際はもっと早く2001年の911事件で決定的なものになっていた、というのが私の見方です。さらにその背景には「近代社会の終焉」という大きな流れがあり、これは私が学生の頃にはもう問題にされていましたし、もっと言えば日本でも戦前に「近代の超克」という議論が出始めていたという流れもあります。

近代の社会を成り立たせてきた、政治システム、経済システム、法システム、思想、哲学など、すべてが音を立てて変化して行っているのが現在で、さらにそこに地球の環境システムの転換が重なっているので事態は壮絶です。

私の学生の頃はそれでもまだ「学問」とか「思想」「哲学」のレベルで抽象的に問題にされていたにすぎなかったですし、大学でいろんな専門の人たちと環境問題について研究したり、環境教育に取り組んだり、大学の環境システムの見直しを考えながら、「近代の終焉」を語ったりしていたのですが、でもまだその時はなんとなく「口先で語っている」だけという感覚が残っていました。

でも911で、そして今はこの新型コロナウィルスの問題で、いまはそれがほんとに日常生活のレベルで目に見える形になっています。

なんでウイルスという「医学」の問題が「近代の終焉」の話に結びつくのか、いぶかしく思われる方もあるでしょう。もちろん「ウィルス」が「近代のウィルスを超えた新しい型のものだ」というような話ではありません。ウィルスがもたらした影響、それに対する世界の対応の仕方が、これまでの世界のありかたを劇的に変化させつつあるという意味です。

近代の終焉のプロセスに入ってとても不安定化していた世界が、このウィルス問題でとてもはっきりした形で姿を現したわけですね。

いろんな観点からそれについて考えることができるのですが、今ちょっと注目していることをひとつだけ取り上げると、この問題が今世界中で「戦争」という言葉で語られるようになっているということがあります。

近代に入ってから戦争といえば「国」と「国」の戦いの事でした(※1)。そして最近の状況を見ても、今にも国と国との争いが、さらには世界大戦にまで進みそうな状況もあったりしました。けれども911以降、戦争の形は相当大きく変わっています。いわゆる「対テロ戦争」といわれるもので、「国」の闘う相手は国境を越えてネットワークを作っている「テロ組織」ということになります。

その組織は国境の向こう側にあるのではなく、自分の国の中に作られている。それが911の姿でした。言ってみれば「敵」は内側にあるのです。

自分の外側に敵を作って、それとたたかう、というスタイルがなりたちにくくなってきていたのです。それは「国境を超えたネットワーク」というものがインターネットによって力を持ったことに直接の原因がありますし、その背後には国境を超えた経済活動が普通になったことがあり、それもまたインターネットが基盤になっています。

環境問題も「敵」は自分の外側にあるのではなく、みんなの野放図な欲望が生み出すもの、という意味では「内側」の問題です。そしてその問題への対処は「国」を単位にしても成り立たないわけですよね。

同じことが今回のウィルス問題で展開しています。

一方ではウィルス対策を「国境を閉鎖する」といった形で「国」単位でなんとかしようという努力が行われています。でも国の中でもそれぞれの地方によって対応を変える必要が出てきています。「国」という単位だけでは国内でも対応しきれません。

さらにこのパンデミックというのは、「世界が強調して対処する」という形で国を超えたネットワークで対応することが不可欠になっています。その中核に位置するのが、いろいろ問題があるとはいえ、やはりWHOという国連機関になります。そしてオリンピックの開催も日本でどうするか決められるわけではなく、IOCという国際組織が最終決定をします。そのIOCはWHOの判断に従うとも言っています。

そういう状況の中で「敵」は「国境の向こう」にあるのではなく、世界に蔓延する、そして自分たちの身の回りにある「ウィルス」となっています。世界の共通の「敵」との「戦争状態」なのだ、という意識が、いろんな国の人たちから語られるようになってきています。

経済的にも「国境封鎖」や「国内の禁足状態」によって壮絶な打撃を与えられることになり、このダメージはかなり長く続くことが予想されますが、そういう経済的な混乱についても、一国で対応できる範囲はとても限られています。

世界的に「テレワーク」あるいは「在宅の仕事」などがこれを契機に相当浸透していくことが予想されますし、その経験が人々の「働く」ということへの意識も徐々に変えていくでしょう。インターネットを活用したテレワークはある意味ネットワーク型の仕事の仕方ですから、「会社」の在り方もかわっていくはずです。

そんなふうに、このかなり大きな危機をきっかけとして、これまでの私たちの生活の仕方が相当根っこの所から変化していき、それにも対応する形で、国と国の関係の在り方も変わり、また経済の在り方も変わっていくだろうという予想が立ちます。

さて、発達障がい児・者への支援の話です。

支援とは何かということについて、いろいろな見方、考え方があります。一番わかりやすいのは、「苦手を克服して<普通>に近づけるように」というものでしょう。

私の専門とする発達心理学では、これまでこの<普通>を「平均的な発達レベル」という形で理解するのが一般的な考え方でした。そしてそのレベルと比較して「遅れている」とか「進んでいる」とかが評価される。いわゆる心理検査は大体そういう仕組みで作られています。

ただしこのレベルの決め方には大事な流儀があります。それは「世界標準」での「普通」ではなく、それぞれの国でデータをとって、その平均をその国々で決めるのです。これを心理学の測定理論では「標準化」の手続きと言います。

つまり、仮にあるテストで同じ点数だったとしても、それが「普通」なのかどうかは、国によって多少異なるのですね。

またどういう力をそれで測るのか、ということについての絶対的な基準が「客観的に」決まっているわけではありません。ただ、それぞれの社会で「これが大事だろうな」と思われていること、そして「測りやすい能力・内容」が用いられています。

そういう風に社会の実情に合わせた「普通」だということになります。だから今は「知能」が一番注目されやすく、たとえば「思いやりの力」みたいなものを検査しようという風に進んでいきません。

ところが今、その「普通」が激しく揺れ動いています。今までの「普通」を支えてきた私たちの暮らし方が大きく変化してきているからです。中世の「普通」が今の人にとってもはや全然「普通」ではなくなったように、近代の「普通」はこれからまた大きく変化していくことは間違いありません。

とすると、これからの世界を生きていく子どもたちを支援するときに、今までの「普通」にとらわれすぎていると、本当にその子が未来に生きることを応援できなくなっていくでしょう。

何が次の「普通」になるかは簡単に見通せませんし、もう一つ重要なこととして、普通がただひとつになることもないだろうと思われます。いろんな条件を抱えて生きている人たちが、それぞれの人にあった形で「普通」を模索するようになる。「多様性の尊重」というのは結局そういうことです。

じゃあ今持っている「普通」を否定したらどうしたらいいんでしょう?自分の普通を否定されてしまったらみんな不安ですよね。

どうしたらいいか。その一つの答えが、私は「障がい者が自然にとけこむ職場」でご紹介した「自然さ」にあるのではないかと思います。

私たちの体が潜在的に持っている「人とつながる力」、「人と助け合う力」を自分自身の中に、そして人との関係の中に見つけていくこと、それぞれの人が改めてそこから「自分(たち)にとっての普通」を見つめなおしていくこと。その作業が欠かせないのではないかと私は思うのです。

それだけで済む話かどうかはもちろんいろいろあります。でもそこを見失ってしまっては、「次」は見えてこないのではないかなと思います。

今回のウィルス問題も、そういうことを模索していく機会の一つなんだろうなと思っています。

※1 もちろん「国」とは近代的な主権国家の事です。

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  1. こどもサポート教室「きらり」女池神明校 こどもサポート教室「きらり」女池神明校

    多様性と普通について

    生物種間における「多様性」は、生物間の生き残り戦略の「結果」であり、淘汰され変化していくなかの過程で表れている状態なと思っていました。その為、以前、山本所長が生物の多様性と同じように人にも多様性を認めようと仰られたとき、その言葉に違和感を持っていました。

    しかし、これまでのブログを読んでいると使われている「多様性」とは生物種間のそれとは異なるのではないかと思うようになりました。生物種の一つのヒトではなく、社会生活を営む人ならではの多様性とは競争と淘汰のレールから降りて、共生するために新しい枠組み、或いは「普通」を作ることなのかもしれないと思うようになりました。

    人の場合、例えば少数派(と呼ばれる人種、宗教、思想などが異なる人達)が集まるコミュニティーでは、互いに争うより、新しい当たり前(普通)を作ることで暮らしの質が高まるのではないでしょうか。イノベーション(革新)に近いのかもしれません。この新しい普通が多様性の尊重に繋がり、何らかの偶然が重なって少数派が多数派になる「過程」なのかと思いました。
    ブログの中に“普通がただひとつになることもないだろう”というのは、少数派が社会で多数派になっても、次の少数派が台頭してくるかもしれません。これを繰り返していくことが時代を更新していくとで、先のようなことことに繋がっていくのかなと思いました。

    生物種間に見られる多様性は遺伝子の多様性であり、それは遺伝子の複製ミスの結果だと考えるのか、神の試みと捉えるのかは私にはわかりません。しかし、時間が掛かるものでした。しかし、山本所長が仰る多様性はそれらの比べるともっと短時間で起きることなのだなと読みながらしみじみと感じました。COVID-19の話とは関係なくてすみません。ありがとうございました。