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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.03.25

藤井七段と自己肯定

少し発達障がいの話を離れての話から始めます。

私も最近はやっている「観る将」(自分ではしないけどプロの将棋を見る)をぼちぼちやっているのですが、藤井聡太七段が将棋に取り組む姿にとても惹かれるんですね。

これまでも14歳で最年少デビュー以来前人未到の29連勝をしたり、信じられないような才能を発揮して社会現象ともいわれるようなブームを作り出したりもしました。

単に「強い」とか瞬時に膨大な手数を読めるというのではなく、誰も思いつかないような驚きの一手を思いつくんですね。

今将棋はソフトの方が人間より強くなってしまって、プロもソフトを使って研究するようになってきていますが、そのソフトが思いつかない手もたびたび打つので「AI越え」などと言われていますし、今ソフトに勝てるとすれば藤井聡太七段しかないのではという声も聞きます。

昨日の対稲葉陽八段でもそれが劇的に表れていました。飛車をある場所に打った手で、ソフトはとても悪い手と判定し、ほぼ稲葉が勝ちそうという評価がずっと続いたのですが、その飛車が大きな意味を持ってそれから40手後には、大逆転で藤井七段が勝利してしまいました。

私なんかは全然わからないで解説を聞きながら、ああそんなものなのか、と思って見てますが、将棋に精通した人たちが彼の将棋には感動してしまいます。東大将棋部出身で、在学中から将棋書籍の編集に従事してきた松本博文さんは「諸君、脱帽したまえ。天才だ。藤井聡太七段(17)奇跡的大逆転勝利で史上初3年連続勝率8割超え達成」という、ちょっとこういう記事には見ないようなタイトルでそれを紹介しています。そう書きたくなるくらい、感動しているんですね。

現役プロ棋士で棋士会副会長も務めている遠山雄亮六段も本当に驚いて記事を書いています

で、話を戻すと、私が彼になぜ惹かれるのかなと思ったのですが、彼が将棋を指す姿勢は、「人に勝つ」ためとは違うんですね。そうじゃなくって「将棋を極める」ために指しているんです。そこです。

だから昨日も史上初めて三年連続勝率八割越えが確定するという、ある意味29連勝の記録も霞むくらいのものすごいことをやりましたけど、感想を聞かれて、そういうことは気にしていなかった。ただ一つ一つの将棋を全力で指している、ということをごく謙虚に語るだけです。

別に謙遜しているとは私には見えません。本当にそう感じている。

彼は「将棋の神様にお願いしたいことがあるとしたら」というようなことを聞かれてこんなことも言っています。「将棋を指してみたい」

聞きようによってはものすごく不遜にも聞こえるかもしれません。「俺はそんなにすごいんだぞ」と威張っているときにも言える言葉ですから。

でも私はそうは感じません。本当にすなおにそう感じているように思えるのです。なぜなら、彼はいつも、誰と指すときも「神様」と指しているような気がするからです。相手が自分より弱い人であっても、常にベストの手を含むあらゆる手を探す。この相手がどんな手を指す可能性があるか、ということではなく、一番すごい手を指すとすればそれはなんなのか、この将棋にはどんな可能性があるのか、その事をいつも模索している気がします。その意味で常に「神の一手」を相手にしている。

ちょっと大袈裟な言い方をすると、彼はこの宇宙がどうなっているのかを、将棋の世界を通して知りたがっているんです、多分。だから世界を、宇宙を知ることに関係すれば、自然科学的なことにも、社会科学的な問題にも深い関心をもって語る。彼の中ではそれは将棋の世界と繋がっているはずです。宇宙なんです。

図抜けた人ってそうなるような気がします。人の評価ではなく、自分自身の真実を求めていく。そしてそれは宇宙を知ることでもある。

私はクラッシック音楽ではバッハが好きなのですが、彼も同じです。彼は人を感動させて誉められるために曲を書いているんじゃなくて、音を通して普遍的な真理、それは彼にとっては神なのだと思いますが、それに近づこうとしています。

彼の曲には音で天国への門を作ったり、壮大なチャペルを作り上げたりするものがありますが、そんな風に世界を音で創造する力を持つんですね。

だから後期になると、もう楽譜に楽器を指定しなかったりします。何で演奏しても自由なんです。もしかすると実際に演奏されるかどうかも関係ないところまで行ってしまったのかもしれません。

もちろん最初からそういう世界に入るわけではないのでしょう。例えば若い頃の傑作のひとつ、トッカータとフーガ等は、ほんとうに若々しい人間の苦悩そのままの曲です。

でもどこかでそこを突き抜けていくんですね。

藤井聡太七段にもなにかそこに繋がるものを感じます。

彼が子どもの頃、将棋で負けると将棋盤にかじりつくように泣き続け、大変だったそうです
(子どもの頃に負けて泣く様子)

そうなるとお母さんは連れて帰るのが大変だったそうです。

さすがに今は泣きわめくことはありませんが、それでもプロになって間もない頃、トップ棋士の一人である深浦九段と対戦して、全く予期しない形で最後の最後に大逆転されて、ほとんど勝っていた将棋を失いました。

彼の対戦は多分大部分がネットで生中継されていると思いますが、そうやって「全国の人に見られている」状態で、彼は数分間びっくりするくらいうなだれ、体をよじるようにして無言で辛さに耐えています。

(プロになってから負けてしょげる様子:10分くらいから見られます)

将棋では終了後に感想戦といって対局者が順にその一局をはじめから並べ直して二人で検討しあうのですが、その様子を見て深浦九段が声もかけられずに困ってしまいます。見ようによっては「いい歳のおじさんがいたいけない中学生をいじめた」みたいな状態にも見えてしまうんですね(笑)

でも彼の中では多分深浦九段に負けたんではないんです。彼が見つめようとしている将棋の世界の大事な秘密を見逃してしまったことに衝撃を受けているんです。

先ほど公開講座の第四回目の収録を終えたのですが、あらためて深く感じたことがあります。それは発達障がいを持ちながら生きるということの大変さは、「人から否定されながら生きる」ことからその多くの部分が生み出され、そしてその辛さが二次障がいに繋がるということについてです。

北村さんの「マイノリティと嘘」も中で紹介させていただいたのですが、周囲に理解されず、否定され続ける状況を必死で生きるということがどういうことなのか、そのことを身に染みるように感じさせていただく思いです。

そのことが、今私の中で藤井聡太七段のことと不思議につながりつつあります。

今回の公開講座のテーマは「二次障がい」です。結論から言えば、二次障がいは否定され続けることで自己評価が下がり、生み出されていくのだから、そこを何とかしなければ、という話です。そこでは「自己肯定感が大事」という話なのですが、発達障がい児・者はそこが本当にむつかしい。その特性によって、周囲から否定的にばかり見られる、とういようなことに陥りがちだからです。サヴァン症候群のようによほど特殊な才能を持っていればまた違うでしょうが、それはごく一部の人ですし。

発達障がいへの理解はわずかずつでも進み、情況は少しずつは前進しているように思えますが、それでも発達障がい児・者が無理なく肯定的に受け止められて生きられるようになるには程遠く、これからも簡単にそうはならないでしょう。

では今は肯定的に世の中から評価されないのだから、「自己肯定感」は育ちにくいのか?ということが問題になります。そうじゃないのじゃないか、ということをちょっと思うようになったんですね。

自己肯定感は最終的には自分を評価する自分自身の目から生み出されます。もちろんその目は他人の目に影響されて育つのですが、でも、他人の目に振り回されることのない自己評価の目がだれにも成り立つんじゃないか、というようなことをちょっと思うようになったのです。

それは自分自身の中に生み出されていく、「自分にとっての真実」に自分なりに向かおうとする姿勢によって可能になる。それが人からどう評価されるかはある意味問題ではない。評価されればそれもうれしいでしょうが、評価されなくても、自分で追い求める道ですから、構わない。

人から見てそれがすぐれた道かどうか、それが高見に立つものであるかどうかも関係ありません。自分自身にとって目指すものがそこにあればいい。それを追い求め、そこに向かって頑張る自分を感じ取ることができれば、その姿を自分で肯定的に受け止められるように思います。

昔の職人には自閉系の人が多かったということはしばしば語られることです。いくらお金を積んでも自分で納得しない限り仕事をしない。納得できない仕事はどれほどほかの人から賞賛されようと否定する。そういう人にとって問題なのは、やはり「自分にとっての真実」なんだろうなと思います。

世間的に有能かどうかは関係ありません。その人がその人の生きざまを見失うことなく生きられれば、それは幸せなことなのだろう。藤井聡太七段の生き方も、もしかするとそこに繋がっていて、それが人に共感を呼ぶところがあるのかもしれないと思い、そしてその生き方の問題は、人から否定されて生きざるを得ない状況に置かれがちな発達障がい児・者の幸せの問題にもつながっていくような、そんな気がするのでした。

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