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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.06.13

痛みの自覚と当事者のかかわりの重要性

もう23年も前に出たのですが、「物語を生きる子どもたち:自閉症児の心理療法」という山上雅子さんの本を読んだことがあります。

その中で当時もとても心に残り、その後も折に触れてその意味を考えるようになったエピソードがありました。それはある自閉のお子さんへのプレイセラピーでの事でした。

遊んでいてたしか膝だったと思うのですが、切ってしまい、血がだらだらと流れるくらいの痛々しい傷だったのに、その子は表情も変えず、遊び続けたのだそうです。「この子は痛みを感じないんだろうか?」と驚くような出来事です。ところがその後遊戯療法を続ける中で、だんだんとコミュニケーションがとれるようになってきた。そうしたら痛みを訴えるようになったというのです。

「けがをして痛みを感じる」のは自閉だろうが自閉でなかろうが同じはずと思えます。ところがぜんぜんそのことを訴えない。表情にも表れない。それこそ「痛覚に異常がある」とでも片づけられそうな状態ですが、しかしその後の展開を見る限り決してそうではない。生物学的には痛覚があったはずなのですが、それが表現に結びつかなかったのだ、と考えられるのです。

少し前に、当事者研究で有名なアスペルガーの綾屋紗月さんのお話を聞く機会があったのですが、彼女の場合、空腹に気づけない、ということがしばしばあるようです。それで仕事に熱中していたりするとも気づかずに何食抜いてしまってふらふらになることがあるということでした。同じようなことはニキ・リンコさんにもあったように榊原洋一さん(客員研究員)からお伺いしたことがありますので、時々あることなのでしょう。

その説明として綾屋さんが言っていたのは、空腹に伴っていろんな体の感覚の変化があったとしても、それら全体として「お腹がすいたんだ」という理解にまとまっていきにくいということのようです。それぞれの感覚がばらばらに気づかれる形になる。

生物学的には自分の体のいろんな感覚を持つことはできても、それをまとめて「空腹」として自覚し、それに対応した行動(食べる)に結び付けていくことがむつかしい場合がある。そんなことなのでしょう。

生き物として痛みなどの感覚を持つことと、それを自覚することと、その自覚に基づいて行動すること、さらには他者にそれを表現することは、定型発達者にとってはごく自然に一体のものであると感じられているかもしれませんが、人によっては必ずしも同じでなく、ばらばらの事なのだ、ということをこれらの例は教えてくれます。

アスペルガーの方たちと話していて、時々聞く話に、「子どものころ、いじめられていることに気づかなかった」ということがあります。特に小学校低学年のころまでそういう状態で、高学年、つまり思春期に入ることでしょう、「あれはいじめられていたんだ」ということに気づいて、そこで傷ついていた自分に気づくというような話です。

気付いた後に思い起こして痛みを自覚され、怒りを覚えたりするという展開のようですから、その意味ではいじめられていたその当時も、言葉にすれば「痛み」というような状態を体験され、さらには記憶もされていたということになるのかなと思います。でもそれを「痛み」としては気づかなかった。

こういう話、よく考えてみると、定型発達者でも時々あるとも言えます。小説などの題材になることもあると思いますが、たとえばものすごく葛藤を抱えていた相手の人が亡くなったあとで、自分がどれほどその人を大事に思っていたかに初めて気づくとか、あるいは人に何かを言われ、あの時どれほど自分が痛みを感じていたのかをのちに初めて気づく、といった例です。

そういうことが、自閉系の方たちには起こりやすい、ということなのかもしれません。

ではどういうときにその時には自覚できなかった痛みを自覚できるようになるのでしょうか。そのことを考えるうえでの一つの手掛かりが、最初に挙げた山上さんのケースのように思えます。

ちょっと理屈っぽくなりますが、自覚というのは「私が〇〇の状態である」ということに気づいたり理解したりすることです。この時、「〇〇の状態にある自分」を「見ている自分」ができています。見る主体としての自分と、見られている客体としての自分という、二つの自分が分離してその自覚を生むのですね。ちょっと固い言葉でいえば「自己が二重化する」という言い方にもなるのですが、精神的な活動としては結構複雑なものです。自分を客観視する、ということの一つでもあります。

つまり、そんな形で自分を外側から客観的に見るような視点が生まれないと、自分の状態は自覚できないと考えることができます。

ではどうやって自分を客観視できるようになるのでしょうか。その基本的な形は「他者の目から見る」ということです。つまり人とのコミュニケーションの中で生まれる理解の仕方なのです。

そうやって自分の個人的な体験を人とのコミュニケーションの中で共有できるようになることと、自分を客観視できることとはセットになって成立すると考えられることになります。言葉を変えると、自分の体験を人に話して伝えることができるように、自分自身に対して伝えることができる。それが「自覚」だと考えられるわけです。(※)

そう考えてみると、山上さんのケースの子が、コミュニケーションが取れ始めたころに痛みを表現するようになり、それ以前はあたかも痛みに気づいていないかのようなふるまいだった、ということの意味が分かってきます。

この場合の痛みは、シンプルに体が傷ついたことによるものなので、比較的コミュニケーションの中で自覚されやすいものだとも言えるでしょう。でも「いじめられた苦しみ」のような複雑な痛みになると、そう簡単には自覚できず、またそれを可能にするようなコミュニケーションの形が作られにくいのだと言えます。

アスペルガーの方をはじめ、発達障がいの方たちと話をしていると、そういう「自覚できなかった痛み」の経験に出会うことがしばしばあります。自覚できないので、その時に「つらいでしょう?」と聞かれてもピンと来なかったりもする。だから「別に」と答えてしまう。でも自覚は出来なくても、つらい状態は積み重なり、体がその苦しみに反応してしまうことがある。そうすると、自分ではわけもわからず動悸が起こったり、吐いてしまったり、うつ状態になったり、あるいは突然叫びだしたりといった「心身反応」のようなことも起こることになります。それもまた二次障がいですね。

発達障がいの方はその人の辛さをなかなか定型に理解してもらいにくいことがあります。感じ方のポイントが違ったりするので、定型にはピンと来なかったりするからです。そうするとそのような体験について発達障がいの方が他者と共有したコミュニケーションが作られにくい。だからそういうコミュニケーションの中で自分の痛みを自覚するチャンスが作られにくいわけです。

療育支援で当事者の視点が重要だと私が考える理由の一つはそこにあります。当事者同士であれば、その言葉にして自覚できにくい辛さ、痛みを共有するコミュニケーションが成り立ちやすいと考えられるからです。そしてそのようなコミュニケーションを通して、痛みを自覚できるようになる。自覚できるようになれば、意識的にその痛みを和らげようとか、解決しようとする工夫を考えることもできるようになります。そういうのは定型の支援者にはなかなかむつかしかったりするのですね。なにしろピンとこないことが多いので。

 
※ 綾屋紗月さんの空腹の話は、また少し違う側面があるように思います。それは自己の内部での身体感覚の統合、みたいなことの色合いが強く、個々の感覚については自覚ができても、それがまとまった意味を持ちにくい、という話のようだからです。同様に綾屋さんの体験談を伺うと、彼女は一つの事に注意が向くと、その周囲の事に注意が向きにくくなるということもあるように感じました。それを自分の注意を多方面に向けて、それらを統合的に把握する、ということの苦手さとして理解すると、上の話とのつながりがもう少し見えてくるのかもしれません。コミュニケーションというのは私の視点と相手の視点を絡ませてやり取りすることで、その意味で多視点の統合が重要になるからです。よくアスペルガーの方で、一対一の話はなんとかなるが、集団の中でみんながおしゃべりしていると全く話についていけなくなる、ということを言われる方がありますが、これも「多視点が絡まる」ことが苦手と考えると話がつながってきます。

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