はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.06.12

客観的ということの意味:当事者視点を考える

ちょっと理屈っぽいです(いつもより)が、当事者視点を大事にすることの意味を少し掘り下げるために、よろしければお付き合いください。

子どもを見るとき、「客観的に見る」ことが大事だとしばしばいわれると思います。はやりのことばでは「エビデンスを重視する」といった言い方もありますね。

私が大学で心理学を学んだ時も、この「客観性」が極めて大事だと言われ続けてきました。そのためにはデータをどのようにとるか、その基準を明確に示さなければならない。たとえば私は子どもの物の取り合いの分析で修論を書きましたが(※)、「ほかの子が使用しているおもちゃ」というのを客観的に定義するために、「ここで先占は他の主体に先んじてある対象を占有することを,占有は対象が主体の直接的な支配下にある状態をいう。操作的には対象の現時点の使用・所持・使用後直接手に届く範囲での保持 ・相手に自分の物と宣言してその場を離れる保管,の状態をいう。」という形で、細かく基準を決めなきゃいけなかったりします。(これでも完全に判断が一致するわけではなく、二人でそれぞれ判断した結果の一致率は88~96%でした)。

私のもう一つの専門である法心理学の「供述分析」という領域ではある意味さらに問題は深刻で、ある人の供述または証言が、本当のことを言っているのか、嘘をついているのか、勘違いしているのか、ということをその人の言葉から推定しなければなりません。でもそもそも言葉で完全に自分の体験を正確に表現して伝えることは不可能ですし、誠実に話したとしても勘違いはいくらでも起こる。さらに意図的に嘘をつくこともできます。そして同じ出来事を語っても供述者によって言うことが全然違うことはよくありますし、一人の人でも聞かれ方や聞かれた時期によっていうことが変わることも普通にあります。そんな人の供述を「客観的」に判断できるのか、というのはものすごく重要でかつむつかしいことです。なにしろ人を殺人犯として死刑にするかどうかにも関係してしまう重大な判断ですし。

ということで、学生のころから私も「客観的に!」ということを強く求められながら、「客観」って何だろう?ということを考えずにはおれませんでした。中には「数字でデータを表すこと」程度に考えている人、あるいはめんどくさいのでその程度の理解で済ませようとする人も少なくなかったですが、それは明らかに間違いです。数字自体はだれでも同じ意味で理解できるという意味では客観的なものですが、数字が何を表しているのか、という判断はものすごく主観がかかわる領域の問題なので(※※)、そこのところをちゃんと議論しなければ、数字でいい加減なことを主張したり、嘘をつくことなんてある意味簡単です。数字に振り回されると、大切な「意味」の問題が見失われてしまう、ということもよくあります。

さて、この客観ということについて、ちょっとおもしろいことに気づきました。

客観というのは「客」の「観方」という意味になります。「客」というのはお客さんという言葉にあるように、自分の家に外からやってくる身内以外の人の事です。白川静さんの「字統」ではその客はもともとは神様が廟屋にやってくることだというのが原義だと説明されています。つまり、自分や自分の身内の見方を超えた、別の見方を持っている人が客です。

ということは客観的というのは、「自分の主観を超えた他者の見方で見ること」という意味になりますね。これが中国語の系統でのものの考え方になりそうです。

では英語では何というか、というと客観的というのはobjectiveです。客観性ならobjectivity、客観化するならobjectifyですね。中心となる単語はobject。ものとか対象とか行為の目的・目標(つまり主観が向かう先)など訳されたりします。自分の主観が感覚によって掴まえられるもの、というような感じでしょうか。掴まえられる対象は自分の主観の外側にあるものと考えられていますから、客観的というのは自分の主観が自分の主観の外側にとらえたもの、といったニュアンスになるのでしょう。

和語ではなんというのかよくわかりませんし、もしかすると漢字が入る前にはそういう表現があまり育たなかったのかもしれませんが、最近の言葉でいえば「おもいやり」なんかが日本的な感覚での客観にちょっと近いかもしれません。「相手の立場に立って考える」といった意味ですから。

さて、もともと語学は苦手なので、その程度の事しかわかりませんが、それでもこの二つ、つまり「客観的」と「objective」という二つの言葉を並べただけで、「客観」にはかなりニュアンスの異なる二つの意味があることがわかります。

どちらも自分の主観を超えた見方、というところで一致しているのですが、「客観的」のほうは「ほかの人の視点」というニュアンスが強くなる。つまり人間関係の中で他者を組み込んで客観を考える、ということです。それに対して「objective」は「人の世界」に対する「物の世界」というニュアンスが強いように思えるのです。

これは近代に西洋で発達した自然科学の思想の中に非常に根強くある「客観」のとらえ方です。日本の自然科学で世界をリードした領域の一つにサル学がありますが、それは「個体識別」という方法を導入したことで、群れの内部の「人間関係(サル間関係?)」が理解できるようになり、その「社会構造」が次々に明らかになったことが大きなポイントです。その結果、チンパンジーとかの社会でも、ものすごく高度な政治的かけひきが行われていることがわかったりもしますし、そこにそれぞれの個体の個性が聞いていることや、親子関係が影響したりしていることもわかってくる。

じゃあなぜ日本人の研究者がそういうのを得意だったかというと、あたかもサルを「人間のように」見るという視点が強かったからで、もともとの客観主義的な自然科学はそれを最も嫌ったのです。あたかも物理学のように、物の理屈で記述しなければならない。人間の理屈を動物に投影して理解してはいけないという感覚が極めて強かったのですね。

西洋近代哲学が躓いたのも「他者の主観」という問題です。「私がこの物を見ている」ということは自分にとっては確実なこととして言えると思えるのだけれど、「相手の人もこの物を見ている」ということがどうしていえるのか、ということがわかんなくなってしまった。どうしても「私の主観」を絶対的なものとして前提に置いてしまうために、「相手の主観」をどう理解していいかわかんなくなるわけです。現象学はそこをなんとか乗り越えようともして、そこで「間主観性」といった概念を作ったりしましたが、やっぱりうまく乗り越えられないままです。

この問題をたとえば浜田さんなどは「見る=見られる」「握る=握られる」という、私たちの自他関係の中に生まれる「能動=受動」関係に注目することで乗り越えようとされるわけです。

つまりそこには「私が見る(握る)」ということと、「あなたが見る(握る)」ということが一体になった世界があるわけで、そこが出発点になるわけです。つまり、私に見えている(感じられている)世界は、それ自体が他者の主観を取り込む形でもともと作られてしまっているんだ、というところから出発するわけですね。自閉症の問題はそこの前提のところで定型発達者とのずれが生まれやすい「障がい」という理解になってきます。

 
こういう浜田さんのような見方というのは、割と日本とか中国などにもみられるもので、その視点から「客観」が考えられやすい。つまり「他者の目」を組み込んで「客観」を考えるわけです。

これに対して西洋的なobjectivityの考え方は「他者の目(主観)」を前提としないで客観を考えようとする傾向が強い。そういう文化的な感覚の差がすごくあるんだと思います。

発達障がいという問題についても、そのどちらの視点をベースに置くかによって、かかわり方もかなり異なってきます。西洋的な客観の感覚から言うと、障がいについて「客観的に確認できる=物の世界の現象である」身体の仕組みや脳の仕組みに注目が行きやすい。近代社会はそういう思想で作られてきましたので、日本でも中国でも、そういう考え方を取り込んでいかざるを得なかったのですが、特に日本ではどうもその考え方だけでは「肌に合わない」ところが残る。なんか人を物扱いしているようで気持ちが悪かったりするわけです。

脳の問題なのか、心理の問題なのかでも述べたように、結局それは同じもの(発達障がい)を違った角度から眺めた話に過ぎないとも言えるのだと思うのですが、今まではあまりに西洋的な意味での「objectivity」が強調されすぎたために、発達障がい者の主観の世界が無視されやすくなったというのが私の見立てです。

これからの発達障がい者との共生は、お互いの主観を大事にした関係が必要になる。だから「当事者の視点」にこだわって考える必要があるわけです。

7月末から始まる公開講座2の2回目では、当事者の方たちに「当事者の視点から見た療育」を考えいただく内容になります。よろしければぜひご覧ください。定型発達者ではなかなか気づけない、かなり刺激的な話が多く出てくるだろうと期待しています。
 

※ 「幼児期に於ける『先占の尊重』原則の形成とその機能:所有の個体発生をめぐって」
※※ 数学は構造主義的数学の視点からは形式論理学と一体化しているとみることもできるようで、論理学が数学の土台とみなされるようですが、その意味は「正しい思考(推論)の形式」を一般的に表すのが論理学であり、その一形態が数学だということになります。ちなみにピアジェ的に言うと、論理学と数学の差は、命題が質的なものか量的なものか、ということにあるという理解になるようです。その違いを「単位」の有無=加算の意味の違い(論理学の加法:N+N=N。数学の加法:N+N=2N)で説明したりしています。ここで正しいとは論理学的にはトートロジーに帰着する、ということになるようです。つまりある前提となるいくつかの命題を置いて、その前提を使って論理規則に従って命題を処理していくと、る別の命題=結論に到達しうることが確認された場合、つまり結論はその前提の中にすでに必然的なものとして含まれている、といった関係が証明されればそれで「正しい推論による結論」と言えるのだという話になります。たとえば「犬は猫である。そして猫はネズミである。したがって犬はネズミである」というナンセンスな文章は、「形式論理学的には正しい」のです。この命題と事実との関係については形式論理学は何も語りません。ところが何を事実としてそから命題を導き出すか、というところに完全に主観がかかわっているので、いい加減に命題を作ってそのあと「正しい推論」をしても、何の意味もないわけです。心理学では何をデータとし、数値化するかの検討がいい加減だと、いくらたくさんデータを取って、数学的に分析したところで、何の意味もないということが起こります。その辺の検討が甘い研究はいくらでも見出すことができます。また因子分析などの手法も、結局数学的に導き出された因子が何を意味しているのかは、ほぼ完全にそれを解釈する研究者の主観に依存するんですね。ところが論文などで数字でいろんな分析結果が出てくると、それでなんとなく「客観的」に見えてしまうというまやかしが起こります。そもそもその数値の出し方(計算のもとになるデータのとり方)や計算結果が何を意味しているのかの検討こそが大事なのですが。

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