2020.08.23
事例検討での目の付け所
昨日の晩も、zoomで北は北海道から南は中国・四国までの支援スタッフのみなさんと、事例検討をやったのですが、他の多くのスタッフの皆さんが事例理解のために話されることと私の目の付け所の違いを改めて面白いなと思いました。
スタッフのみなさんは仕事柄当然のことですが、その子が「できないこと」で本人や周囲が困惑しているポイントを整理して、その子の特徴を探り、「どうしてそうなるのか」という「原因」を考え、そしてどうやったら「できないこと」が「できるようになる」のかを見つけ出そうとする、という形で話が進んでいきます。
私もスタッフ向け研修用のテキストの「事例検討」の章では、大体はそういう筋で説明をしたりするので、「原因」の考え方には経験や知識などの差も出てくることはありますし、私が子どもの小さな「変化」により注目する点ではほかの人より強い部分がありますが、それ自体がほかの皆さんと私の目の付け所と大きく違うというわけではなさそうです。
ちょっと違いを感じたのは、私の場合「こんなにできないことがあってどうしよう」という感じではなくて、「ここまでできてるんだ」という感じで見る傾向が強いということでした。
たとえば足し算が苦手な子がいたとします。上の方式だと「足し算ができない」という「困難」に注目して、「なぜできないんだろう」「まだ足し算はむつかしいのだろうか」「そもそも数量の概念はどこまでできているんだろうか」「この子にとって適切な課題レベルとは何だろう」みたいな感じで話が進むでしょう。
でも「ここまでできてるんだ」方式では、視点が切り替わっちゃうんですね。「あれ、この子結構長いこと椅子に座って問題に取り組めてるじゃん」と思う。「わりと集中力あるんじゃない?」と考える。足し算ができないのは同じなんですけどね。注目するポイントが変わっています。
実は私もこういう切り替えが昔から普通だったわけではありません。以前はやっぱり「発達心理学の専門家」として、「できない原因」を分析しようとする視点が中心でした。それが先日の公開講座の当事者インタビューの中でもお話を伺えた、ADHD+ASDの診断を受けている鈴木領人さんからかつて教わって、「これはすごい!」と思ったエピソードがあって、それからからなんですね。
前にももしかしたら紹介したことがあったかもしれませんが(もう以前何を書いたか忘れてる(‘◇’)ゞ)、鈴木さんはたとえばこんな経験を教えてくれました。発達支援の事業所に通っている子どもが、「ここからは入ってはいけませんよ」という線を超えて、事務スペースに入ってきて、机の上に突っ伏したそうです。
そういうとき、もし私なら「ああ、この子はここから入ってはいけない、ということを<まだ>理解できないんだな」ととっさに感じるんですね。ところが鈴木さんはその子の事を見て「すごい!」と思ったというんです。私はわけがわかんなくて聞いてみたんですが、こういう答えでした。
「もし昔の自分なら、机の上に突っ伏して、その上の物をぶちまけていただろう。でもこの子は全然そうしない。すごい!」
見ている場面は同じなんですが、見ているものは全然正反対です。「できる」なのか「できない」なのか。そのうち「できる」というところに自然に目が向くのが、いわば「鈴木式」なんですね。
「できること」をベースに「できないこと」を考えるのか、「できないこと」をベースに「できること」を考えるのかは微妙だけでどかなり違います。
とりあえず支援する側からすると、「できること」をベースに見ることができれば、「支援の足場」が実感できるようになります。「ああ、ここが出発点なんだな」という感じです。そうすると「ないものねだり」でしんどくなることがなくなっていきます。「ないものねだり」を続けると、どうしても子どもを否定的に見るようになる。逆に鈴木方式だと子どもは肯定的にみられるんです。
当然その支援者側の視線の違いが子どもにも影響します。自分の肯定的な面を見てもらえているのか、自分の否定的な面ばかり見られているように感じるのか、という違いは、子どもにとってとても大きなものです。鈴木方式だと、今の自分を肯定するところから次を考えることができます。ところがないものねだり方式だと、今の自分は否定される運命にあります。
ちょっと抹香くさい話にもなりますが、仏教用語に「知足」というのがあるようです。「足るを知る」と読みますが、似たような視点の転換ですね。同じ状況の中でも「足りないことを思う」のではなくて、「足りていることを知る」わけです。この考え方をマークのようにあしらったのが「吾(われ)唯足るを知る」という四つの漢字を組み合わせて作られた龍安寺の「知足の蹲踞(つくばい)」というものです。
「前進」や「向上」のためには「上を見る」「前を向く」ことが必要ですが、その時に「足元を見る」ことを忘れて焦燥感にかられてしまうと、空回りして転んでしまうということなんでしょうね。さらに「前進」や「向上」なんて別に目指さなくてもいいじゃない、という人生観も当然あるかと思いますし、そのあたりはその人が置かれた状況によってもいろいろかと思いますが、いずれにしても今の自分を肯定するところから歩めるようになれば幸せだろうなと思いますし、また子どもがそうなれるような支援っていいなと思います。
鈴木さんはご自分がADHDなどの特性を持つ方として、子どもたちと似たような経験を多くしてきて、その中で「当事者の視点」から子どもを理解する力がすごいんだと思います。さらに鈴木さん自身にもそういう特性をもちつつ、いろんな工夫で状況を切り開いてこられたご自分への基本的な肯定感があることを私は感じさせられています。だから子どもたちも鈴木さんとのかかわりの中で自分を肯定的にみられるようになるのでしょう。鈴木式はその意味でも大したものだと感じています。
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- 自閉と定型の「傷つけあい」
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- 規範意識のズレとこだわり
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