発達支援交流サイト はつけんラボ

                 お問合せ   会員登録

はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2020.10.14

言葉を成り立たせるものについての最近の議論

ことばというのは「あるもの」が「べつのもの」を表す、という「記号的な関係」によって成り立つ、というのはソシュールに始まる近代言語学の基本的な考え方になります。

たしかに出来上がった言葉はそのような形を持っているのですが、しかし実際の人間の発達の中で、どのように言葉ができるようになるかを見ると、そういう考え方だけではうまく発達を捉えられないことも明らかになります。なぜなら発達と言うのは、そもそもそういう形が取れない段階から、新しくそういう形を子どもが使えるようになるようになる、という変化を理解しなければならないからです。重たい自閉症のお子さんをはじめとする発達障がいのお子さんの療育支援に携わる方は実感としてそう思われているだろうと思います。

そのような視点を抜きにこのソシュール的な言葉の見方を発達の中に単純に応用すると、「何かの音(あるもの)を聞いたときに、その音が表す意味(べつのもの)を思い浮かべることができるようになる」ことが言葉の獲得なんだという話になってしまいます。

このタイプの議論の一番単純なものは「条件付け」で言葉を獲得させようとするような話になるでしょう。その見方で何が問題かと言うと、たとえばすでに言葉を話せる人が外国語を覚えるときのように「リンゴ」=「apple」といった二つの言葉を条件づけて覚えるような話と、言葉がまだ獲得できていない子が言葉を覚えるようになるプロセスは、質的に全く異なることだからです。言葉の獲得の前段階では「言葉を条件付けで覚える」ための基本的な仕組み自体がまだ成立していないのです。

姿勢の発達にたとえて言えば、まだ首の座っていない子にお座りを練習したって意味がないですよね。お座りをするには前提として体幹を支えてそれを維持するような体の仕組みが整っていなければなりません。首が座っていないということは、その大前提になる体幹を支える仕組みがまだできていないことを意味しています。それと同じようなことですね。条件付けで「言葉を覚える」ための基本的な仕組みがないところでそれをやってもそれは無理ということになります。

ではその基本的な仕組みは何かといえば、「ほかの人と意味を共有することができる」という心理的な仕組みになります。「記号」と「意味」が結びついたものが言葉だ、という話ではそういう仕組みの成り立ちを考えることができません。問題はどうしてそれが結びつき、そしてその結びつきがほかの人と共有できるのだろうか、という話だからです。

では人はどうやってそういう仕組みを獲得していくのでしょうか。改めて整理すれば、まずは直前に指差しの理解や使用の力が成立します。これは「あるもの(言葉)」が「べつのもの(意味)」を指し示す、という形を「あるもの(指)」で「べつのもの(対象)」を指示す、という形が成立したことを意味していて、それゆえに言葉の記号的な形の基本準備ができたことになるからです。

その前の段階はいわゆる三項関係(共同注視)になります。お母さんが見たものを、その視線をたどってみることができる、といった振る舞い方です。結果として子どもは「お母さんが見たものを見る」という形で、「見る対象」をお母さんと共有する、つまり言葉でいえば「意味」にあたるものを共有することができたことになります。ただし「あるもの」にあたる指とか言葉はありませんので、そこに記号的な関係を見ることができません。その意味で前段階の準備になります。

さらにさかのぼると、その前提となる力、つまりは「相手の目を見る」ということが新生児段階から成り立っていることがわかります。「相手の目を見る」なんてとくにどういう意味も内容にも感じられるでしょうが、実際は大変に重要なことです。なぜなら相手の目を見るとき、同時に私たちは「相手から見られている」ということも感じ取ります。これは相手が単に命がない物ではなく、「私を見る」という能動的な主体なんだということを感じ取っていることになるからです。

この力は「やりとり」をするための基本になります。私が相手に対して何かをする、それにたいして今度は相手が私に対して何かをする、というお互いの主体性に基づいた働きかけあいによってやりとりは成立しますが、そういうやりとりの相手として相手を理解する力をこの「相手の目を見る(見つめ合う)」ということで子どもが示しているからです。

ただ、この段階ではお互いを見つめあうだけで、「お互いに同じもの(意味)を見る(共有する)」関係は出来ていませんから、三項関係の前の段階だということになります。ということで

 「相手の目を見る=相手をやりとりの相手として理解する」⇒「相手が見たものを見る=対象を共有する」⇒「対象を指さす=意味を共有する」⇒「言葉で対象を示す=記号的な関係を使う」

という形で言葉が使えるように心理的な発達が起こります。これはお互いにお互いの主観(それぞれが意識していること)を共有していく仕組みということで、間主観的な発達の過程ということができます。ですから記号的な働きを持つ言葉を獲得できるためにはこの間主観的な発達が大前提となるのであり、それができていない子どもに言葉を教えようとしても、それこそ「意味がない」ことになってしまいます。

発達心理学的にはこの話はもうポピュラーなことになってしまいましたが、三項関係についてその発達的な意味を最初に論じた人は日本のやまだようこさんだと思います。またこの間主観的な発達、特に人と人が「見る=見られる」の関係にあることの重要性については世界的にはまだまだ注目が足りないと思いますが、それをいち早く重視した議論を展開したのは浜田寿美男さんになり、この分野での日本の心理学者の議論はずいぶんと先を言っていると私は感じています。

 

と、ここまではこれまでも何度か書いてきたことですが、もうひとつ、言葉というものについて大事な議論が展開していると思います。それは発達心理学の領域の議論ではなく、「相互行為論」と呼ばれる分野の研究に見られるものです。

この研究でも、言葉を単にソシュール的に「記号と意味の結びつき」で済ますことがありません。この「記号と意味の結びつき」の話は、前提としてまず「記号」があって、同時に「意味」があって、それがばらばらだったものが結び付けられる、という話になりますが、ある「記号」がどうして特定の「意味」に結びつくのか、ということはそれでは説明できません。

このことを理解していただくために、記号的な関係の前段階にある指差しを例にあげましょう。

ある人が前の方を指さして「ほら」と言ったとします。ここで「指」は記号のような働きをするものとして相手が理解したとして、ではその「指」は何を指示している(意味している)のでしょうか?

これだけではわからないですよね。いろんな可能性があります。もう少しシンプルにしてみましょう。

さて、今度は指さしているものははっきりしているでしょうか?一見すると「うさぎ」だろうと思えますよね。でもちょっと考えてみると、ウサギ全体ではなく、ウサギの耳かもしれません。あるいは「茶色っぽい毛並み」かもしれません。「座っている姿」かもしれないし「かわいさ」かもしれません。極端な場合は「ウサギの向こう側の方向」のことだってあり得ます。

何が言いたいかと言うと、「指し示される意味」は「指」だけでは決まらないということなんですね。だとすれば、その指が何を意味しているのかということについては、指だけではなく、指の指し示し方とか、前後の話の展開(たとえばそれ以前に最近飼い始めたペットの話をしていたとしたら、指示されているのはだいたい「うさぎ」であってその「耳」ではないことがほぼ確定できます)など、指さす行為の周辺のいろいろな事情との組み合わせで絞り込まれていくのだということになります。

相互行為論で指差しの問題を議論するときは(Goodwin2003など)、そんな風にお互いのやりとり(相互行為)の中で記号的な関係が共有されていくということに注目して研究していくことになります。

相互行為論では間主観的な発達の問題についてはあまり議論がなく、間主観的な理解の仕組みはすでに成立している大人の間でどう意味が共有され、相互行為がなりたつのかを問題にするようですが、言葉を「人と人とがどのようにやり取りをする中でそれが成り立っていくのか」というプロセス、仕組みを理解しようとしているのだと言えそうです。

言葉は単に記号と意味の機械的な結びつきではなく、そこに人と人とのダイナミックなやりとりが背景にあります。そのやりとり(コミュニケーション)の中で意味がその都度成立していき、他者と共有されていく。そこではソシュール的な言語の見方では取りこぼされてしまっている「身体の働き(たとえばどのような向きをしているかなど)」も取り上げられることになります。

人が人とやりとりしながら生きている、その中で言葉が成り立っていくという仕組みを理解するうえで、これらの議論もまたとても重要になっていると思います。

RSS

コメント欄

 投稿はありません