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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.10.16

発達の道筋はひとつではない

大学時代に私が学んだ心理学教室では、発達心理学を専門とする学生・院生の間で障がいの問題を語れなければ発達心理学ではない、という雰囲気が当然のようにありました。浜田寿美男さんもその大先輩になりますし、さらに私が入学した時にはすでに故人となられていた園原太郎先生は、ピアジェが日本に来た時に、シンポジウムか何かで「障がいの問題はどう考えられているのですか」と聞いたときに、ピアジェがそこは自分の研究の範囲外、というような答えをされたらしく、そのことに大変怒っていらしたというエピソードも残っています。

園原先生の学生でもある浜田さんも自閉症について重要な議論を展開されてきていますが、ピアジェの大著「知能の誕生」を院生時代から訳し終えて、「これじゃ人の間で育っていく人間の発達は語れない」と思われたらしく、「私はこれでピアジェをやめました」と面白い言い方で語られています(こちらのインタビューをどうぞ)。

なぜ発達を語るときに障がいの問題を考えることが不可欠かと言うと、その一つの理由はある一般的な状態(たとえば定型的な発達)が成立する理由を知るには、それとは違う状態(たとえば発達障がい)と比較することで、はじめて「何がその一般的な状態を支えているものなのか」を知ることができるからです。

さらに今、もう一つ先の問題が重要になってきていると私は考えています。それは「発達の道筋は一つではない」ということです。

人間の精神は個人の中ではなく、まず人との間で成立することを重視してピアジェとも論争したヴィゴツキーの流れをくむ文化心理学の中では、文化が異なることでたとえば計算の仕方やその使い方を学ぶ道が異なっているなど、心理的な仕組みの獲得が文化によって異なる展開をすることをすでに問題とし、そもそも人間の心理はそれ自体が文化なんだということを主張したりしてきました。

ただ、言葉の発達にとって一番大事な「人と注意の対象を共有する」力(たとえば同じものを見る、指差しで相手に注目するものを伝えるなど)の発達、つまり間主観的な心理の仕組みの発達については、文化による違いなどはあまり想定されていないように思います(※)。同じように、障がいのあるなしにかかわらず、言葉が出るためにたどる道筋は同じだと暗黙の裡に考えられているように思えます。

実際、発達の教科書的な本や、ネット上にあふれている言葉の発達の解説を見れば、大体「視線が合う」⇒「お母さんが見たものを見る」⇒「指差しがわかる」⇒「一語文が出る」といった説明になっていますし、私もしばしばそういう説明をしてきています。

けれども、この説明の仕方では本当は不十分なのです。

たとえば先天的な視覚障がい者の河野泰弘さんとメールでやりとりしていてとても面白かったのですが、明るさがかすかにわかる程度で物の形などを見ることができない彼が、たとえば「友達と一緒に湖を見た」とか「家族と一緒にテレビを見た」というわけです。メールだけ読んでいればとても自然な文章の流れでそのまま読み過ごしてしまうのですが、ふと考えれば「見る」という体験は河野さんにはないはずなんですね。目が見えませんから。当然お母さんが見たものを見る、ということもできなかったわけです(※※)。

また、指差しも見えませんから、少なくとも周りの人の指差しをわかることはありません。それでも河野さんは自由に会話を操って活躍されていますから、そうだとすると上のような一般的な言葉の発達の図式は嘘ということになります。嘘とまでは言わなくても誤解を招く言い方だということになります。

その結果、その説明を単純に理解して絶対のものと考えてしまうと、言葉が出てこない子で、まだ指差しもできない子に一生懸命指差しの形を教えるような、まるでとんちんかんな「支援」が行われたりすることにもなりかねません。

そういう河野さんの例なども含めてわかることは、言葉の形成にとっては「指差し」という指の形ができることが問題なのではなく、「同じものに注意を向けることができる」という力、少し専門的に言えば志向性の間主観的な調整の力の形成こそが本当に大事なことなのだということです。指差しはそれを達成するために使いやすい手段の一つにすぎず、目が見える人はそれが便利だから等の理由でそれを多用しているだけのことです。指以外でもそれは可能ということになります。

 

そう考えると、河野さんが湖やテレビを「見た」という言葉もとても自然なものであることがわかります。それは目で視覚的に見たという意味ではなく、「それに注意を向けた」ということなのです。目が見える私たちでも「見る」ということは同時に「注意を向ける」ことでもありますから、河野さんが「見た」という言葉を使っても、違和感なくそれを読めてしまうということになります。(ふと思いましたが、「見えた」という表現についてはどうなるか、ちょっと興味深いことです)

さて、河野さんは視覚による手掛かりがない中で人とのコミュニケーションの力をはぐくんでこられたのですが、私が先々週から「みんなの大学校」で始めたzoomを使った講義「発達心理学」を受講されている岩村和斗さんは、肩の筋肉が少しだけ動かせ、目が動かせるほかは運動は無理で、ずっとベッドで過ごされています。当然のことに声を出して話すこともできませんし、指さして相手に何かを伝えることはできません。相手と同じ方向を向くこともできません。でも今彼とはパソコン入力という手段を使って、私とも簡単なやりとりができるのですね。

一体和斗さんのその「ことば」の基本的な力はどうやって育ったのでしょうか。これは発達心理学的に考えても実に興味深いことですし、そのことの秘密がわかってくると、いろんな障がいを持った方たちとの間に、これまで気づかれなかったような、その人の状態にあったコミュニケーションのやり方が見えてくる可能性もあります。

知的障がいを伴う自閉的なお子さんとの「コミュニケーション」の展開については、ご自身がアスペルガー当事者でもある大内雅登さんが、当事者だからこそと思えるようなすぐれた療育支援を行われているのですが、そこでも痛感するのが、少なくとも鈍感な私の定型的感覚では到底つかめなかったようなルートを大内さんがしっかりと感じ取られているためにそれが可能になっているようだということです。

発達の道筋はひとつではない。一人一人の人が、自分が持っているいろいろな条件の中で、それぞれに模索しながらその人らしい生き方を作り上げていく。そのひとつひとつの道筋が発達なのだと考えれば、それはあまりに当然のことでしょう。そういう多様な発達の道筋を見つめていくことが、これからの発達心理学にとっては極めて大切なことになるのだろうと思います。

 

※ 理論的に説明すれば、文化は記号を用いた間主観的な(共同主観的な)コミュニケーションのしくみが成立することによって成り立つと考えられますので、その意味ではこれは当然とも言えます。ですから、そこで問題になるのは間主観的なコミュニケーションの仕組みの成立過程の文化的な多様性ではなく、間主観的なコミュニケーションを成り立たせる要素の障がいなどによる違いということになります。

※※ 河野泰弘2011「見える文化と見えない文化」 山本登志哉・高木光太郎編著「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」東大出版会 所収

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