2020.10.18
見る力と聞く力:人と世界を共有する道筋
前回ご紹介した視覚障がいの河野泰弘さんが書かれた「視界良好2」(北大路書房)に面白いことが書かれています。
「ひとりひとりの視点を補っていくと、その先にはなにがあるのだろう。すべてを見たい、もっと見たい……。
それぞれの「目」を合わせれば、「見え」はより進化していくのかもしれない。」
先にも書きましたように、河野さんは明るさの変化がかすかにわかる程度で、何かが「見える」状態ではありませんから、晴眼者からすると「それぞれの『目』を合わせれば」というのは不思議に思われるでしょう。でもその言葉遣いのことはいったんおいておいて、この文章で語られることの内容は全く違和感がありませんし、発達心理学的に言ってもとてもまっとうなことを言われています。
そしてそのように書かれたことによって河野さんが晴眼者の私と全く一致した考え方になる、すこし言葉を変えれば「世界を共有できる」のは、まさに言葉の力によってです。でもそこで共有されているのは、「目に見えた世界」ではありません。私は視覚をフルに使って世界を理解していますが、河野さんはそうではない。じゃあどんな世界が共有されているのでしょうか。
晴眼者はあまりに視覚に頼りすぎているので、ともすれば忘れがちですが、私たちが世界を感じる道筋は決して視覚には限られません。暑さ寒さを目で見ることはできないし、そよぐ風は目で直接見ることはできません。風によって揺れる木々などを見て間接的にみられるだけです。音楽を目で見ることはできません。楽譜は読めてもそれは音ではありません。赤ちゃんを抱いたときの軽さや重たさ、柔らかい体の感触を目で見ることはできません。よどんだ空気の重たい湿り気やかび臭いにおいを目で見られる人はありません……
私たちが生きて体験しているその世界の中で、実際は目で見える部分はほんの一部なのに、それを普段はだいたい忘れているのですね。
「バラの花」という言葉を発した時、その言葉で浮かんでくるのはまずはバラの視覚的なイメージでしょうか。そうであれば、その言葉が「意味するもの」は図のようなものになります。私なんかはそうです。つまり
「バラ(という音声)」=「バラの映像」
と言った記号的な関係がイメージされます。でももっと感性が豊かな方なら、バラと聞いたときに真っ先にバラの香りをイメージされるかもしれません。人によっては手に持った時にとげが刺さっていたかった体験がまず思い浮かぶかもしれません。恋人にバラをもらったときの喜びの気持ちがまず思い出される方もあるでしょう。
「バラ」という音声が記号として指し示す意味の世界は、実際には視覚的なイメージには決してとどまらないわけです。世界は視覚的なイメージよりもっともっと豊かです。そして言葉によって人と共有される世界も本当はそうであるわけです。
だから、たとえば河野さんと視覚的なイメージの世界を共有できなかったとしても、私たちはいろんな道筋で河野さんと世界を共有しています。そういうことを考えながら、もう一度河野さんの文章を見返してみると、また少し違った見え方になるのではないでしょうか。
「ひとりひとりの視点を補っていくと、その先にはなにがあるのだろう。すべてを見たい、もっと見たい……。
それぞれの「目」を合わせれば、「見え」はより進化していくのかもしれない。」
「すべてを見たい」「もっと見たい」「それぞれの『目』を合わせれば、『見え』はより進化していく」という言葉は、「この世界についてのそれぞれの体験を合わせていけば、世界をもっと豊かに共有できる」という言葉に置き換えて十分に納得がいきます。
そうすると、私たちはどうやってほかの人と体験される世界を共有しているのか、ということが問題になってきます。他の人が今どんな体験をしているのか、何に注意を向けてどんなことを考えているのか、ということは、相手の顔を眺めているだけではなかなかわかるものではありません。
晴眼者の場合、相手の体験している世界、相手が注目している物を理解する大事な手掛かりが「相手の視線」になっています。相手の目を見て、相手の見ている物を見る。指差しをして相手に自分が見ている物に注目してもらう、と言った形でお互いの注意の対象が共有されるようになります。そのうえで言葉を使ってお互いの注意の対象を共有することができるようになる。
でも河野さんはそういう形で視線を使って注意を共有することは無理なので、どうやってそれが可能になったのかがとても興味深いことなのです。その点について「視界良好2」にとても興味深いことが書いてありました。
そういえば、私は大きな音がした方にさっと顔を向けるそうです。たとえば、道を歩いていて後ろから自転車のベルの音が聞こえるとすぐそちらに振り向きます。そして自転車が通り過ぎるのを待って正面に向き直ります。私にって、音の方に顔を向けることが注意(耳)を向けることになるのです。(p.11)
晴眼者は目を向けて何かに注目します。単に視線を動かすだけではなく、顔全体をそちらに向けることも多くあります。そのふるまいを見て、他の人はその人が何に注目しているのかを理解することができます。
河野さんは視線を向けて物を見ることはありません。でも音がする方向に顔を向けることをするのですね。それでほかの人から見ても河野さんが「何に注目しているか」をある程度は理解することができます。
なぜ目が見えないのに、そちらの方に顔を向けることができるのかと言えば、それは知覚心理学的に言えば河野さんも両耳聴の仕組みを使っているからでしょう。両耳聴というのは、左右の耳で聞くことです。私たちは意識はできませんが、両耳に入ってくる音は、音源が正面から左右にずれていると、そこからそれぞれの耳への距離がほんの僅かにズレ、音が届く時間がほんのわずかズレるので、そのずれからどちら側にその音源があるのかを分かります(ステレオ音声の仕組みです)。そのずれがなくなるように顔の向きを変えると、結果的に音源の方に顔を向けることができるわけです。
視覚については両目の像のズレ(両眼視差)から私たちは立体的に目に見えた世界を体験できますが、それと同じように両耳聴のズレから私たちは音源の世界を立体的に体験できる。そしてそれによって注目すべき音源の方向を向くこともできるわけです。
その目で見て作られた体験の世界と、耳で聞いて作られた体験の世界は重なっているわけですね。
河野さんは多分この重なりを利用することで、晴眼者が目で見て理解している体験世界と河野さんが耳で聞いて理解している体験世界をつなげて共有できるようなコミュニケーションの仕組みを育ててこられたのだと思います。(具体的には何がどういう手掛かりになってそれが可能になっているのかは大変興味深いことです)
そうやって、「同じものに注意を向ける」ということが、視覚ではなく聴覚を用いて可能な共有世界を作り上げていったため、「見る」という言葉が「同じもの注意を向ける」という意味でとても自然に使えるようになったと考えられます。
起き上がって動き回ることができない重度の身体障がい者の岩村さんもそうですが、いわゆる健常者が主に使っている「体験を共有するためのツール(道筋)」を用いることができないとしても、人は他の道筋で通じ合うことができる。それぞれの特性に合わせた形でこの道筋が発見できれば、いろんな人たちとコミュニケートして世界を共有し、一緒に生きていくことが可能になるということになります。それはお互いにとって、自分の世界を広げるという楽しみをもたらしてくれることにもなるだろうと思います。
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