はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.10.30

やっぱり二次障がいが問題だ

事例検討会を全国の支援スタッフの方たちとやりながら、ますます私の中で確信のように感じられることがあります。

 

それは発達障がい児支援の一番大きな課題は、「二次障がいをなくしていくこと」なんだということです。それを大前提として、「その子の個性を活かしてその子なりに幸せに前向きに生きていける」道を探していくことが課題になる。

発達障がいと言えば、脳の機能にうまれながらの原因があって、それでそれぞれの障がい特性にあるような「苦手」が生まれるということになっています。だから、支援と言えば、その「苦手」を測定し、特性に合った形でそれを補っていく、といったイメージが多いでしょう。いろんな支援の「技法」がありますし、それぞれ全く違う考え方に基づいてはいますが、そういったいろんな方法も「苦手」を補うための工夫、テクニックになっています。

それはそういうことも必要ですし、うまく使えるものは利用したらいいのは当然です。でも、具体的なひとつひとつのケースを見ていると、そこが一番の問題じゃないんだ、と思えるケースが本当に多いことを強く実感するようになるんです。

もちろん子どもたちや親御さんたちが直接に苦労しているのはまずはそういう「苦手」な部分です。でも悩みが深ければ深いほど、実は一番苦しんでいるのはそこじゃないことに気づくんです。その「苦手」さを持つことで、自分を肯定できなかったり、子どもを肯定できなかったり、様々な不安を抱えたり、と言う形で「苦しんでいる」。

その苦しみの中で、家庭の中につらい状況が生まれたり、精神的に不安定になったり、激しく攻撃的になったり、うつ的になったり、そういう二次障がいがひどくなっていく。二次障がいがひどくなることでまた「苦手」がさらに強まり、自己否定が強まり、荒れていく。

 

そういう状態への「心理的ケア」こそが一番の土台なんだと思えてなりません。

もちろんカウンセリングをすれば発達障がいの問題がよくなるなどということを言いたいわけではありません。カウンセリングも定型的な感覚をベースにやってしまうと、アスペルガー者へのカウンセリングが全くうまくいかなかったり、逆に状態を激しく悪くする、と言った例も具体的に知っています。アスペルガー者の場合は特に「共感のありかた」に定型とズレが起こりやすいので、定型的な「共感的、受容的態度」での感覚でカウンセリングしても、そのままうまくいくほど問題は簡単には思えません。

カウンセリングをすれば、生まれながらの特性が変わるわけでもありません。

そのことは大前提ですが、そのうえでやはり「心理的ケア」が一番大事なケースが本当に多いんです。もちろん事例検討会に出されてくるようなケースですから、問題がこじれてそうなっている比率が高くはなるでしょうが、でもそこで見えてくる心理的な問題はある意味ほんとうに発達障がいの子が陥りやすいシビアな状況を象徴しているように思えるのですね。

 

具体的な中身抜きで一般的に書いていますから、ちょっとわかりにくいかもしれません。でもほんとにある意味シンプルなことで、発達障がい児がその特性のせいで周りとうまくいかず、さまざまなトラブルが起こりやすく、けれども調整の仕方もなかなかわからず、周りからも否定され、自分自身も自分を認められなくなってくる。

「自分を肯定できない」つらさを多くの発達障がい児が抱えて苦しんでいます。そして保護者もその子をどう肯定していいのかわからなくてつらい思いをしている。

だから、「○○ができない(苦手)」だから「○○ができるように訓練しよう(支援しよう)」というかかわりは、それだけでは一番大きな問題を解決できないことが多くなります。特性は訓練でなくなるわけではありません。その子の個性です。ただ工夫によってあまり強く表に出なくなったり、うまく調整できることはありますし、それによって困難が減ることで前向きになることもある。でもそんなに簡単に調整できる問題ばかりではありません。

そしてその調整が簡単であれ、困難であれ、いずれにしてもその特性を持ちながらその子は生きていく必要がある。その特性を足場に生きていく必要がある。だとすれば、そういう特性を持った生き方を一方的に否定的に見ない、むしろ肯定的にみられる環境づくりこそが大事になります。子ども自身や保護者が本当に悩まされているのはその部分だと思えてなりません。

ですから、私は事例検討会では「この子は○○ができない」というような話は中心にはしません。そういう苦手な部分も含めてこの子は今どういうところで悩んでいるんだろ、その悩みを生み出したり強めてしまうような環境的な要素は何なんだろう、どういう経緯でそのような悩みが軽減されず、逆に積み重なってきてしまっているんだろう、そこを転換していくには何がポイントになるのだろう、といったことを、具体的な子どもの生活の様子、ちょっと大げさに言えば「生き方」から考えていきます。

そういうやり方の方が、はるかにリアルに子どもに迫ることができ、またどういう支援をしていくべきなのか、とうことに迫っていけるように感じています。「○○ができないからできるように」という話はもう超えてしまいます。「○○ができるようになる」のならそのことを込みにして、逆に「○○はできそうにない」のであればそのことを込みにして、いずれにしても「○○ができない」ことで否定されない関係づくりを考えていく。

だから「○○ができないから不幸だ」みたいな考えは不必要になります。みんな苦手を持っている。できないことを抱えている。誰もが限界を持っている。そしてそれぞれの人がそれぞれの人として持っている限界を前提に、どうやってよりよく生きていけるのかが「その人の」課題なのであって、いわゆる頭が良かろうが悪かろうが、体の不自由度が高かろうが低かろうが、その人の現実をベースにその人なりの生き方を模索し、その人なりの課題にひとつひとつ取り組んで生きていくこと自体が価値のあることなんだろうと思います。もし不幸があるとすれば、自分の現実とは関係ない基準に振り回されて苦しむ場合でしょう。それは「○○ができる」かどうかの話とは別の事です。

 

これって、ほんとに素朴なことだと思うんですね。脳の仕組みがどうのこうのとか、そういうむつかしいことではない。脳の仕組みがどうであっても、それを抱えて生きていく、その生き方を工夫していきましょうということでしかない。その視点からの療育支援論がもっともっと出てきてもいいように思います。

 

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