2020.10.31
事例検討でうれしいこと
事例検討では現場の支援スタッフから具体的なケースを出してもらい、私がアドバイザーのようになってその内容を検討して、その子が今どういう状態にあるのか、そこに至るまでにどういう変化があったのか、その子の今抱えている中心的な課題はどこにあるのか、その課題に関わる要因はなんなのか、それに対してどのような支援が考えられるか、といったことを議論しながら検討していきます。
昔、まだ私自身が経験不足のペーペーだった時、子どもを観察し、そのあと新版K式発達検査をやって保護者の方の話を聞き、施設の先生方と議論する、ということをやるのですが、検査の結果をうすっぺらく報告するだけで、よりリアルに子どもに迫った議論は現場の先生方のお話を聞いてひたすら学ばせていただく感じでした。
その中で「言葉がなかなか出てこない子ども」たちについても現場で学び、自分なりの言語発達に関する視点が培われていきます。そうすると、言葉が話せる、ということは「あるもの(言語学的には能記)」で「別のもの(所期)」を表すといった記号の関係がその子の中で育つ、言い換えれば「音(ことば)」と「意味(対象)」が結びつくという単純な話では決してないのだということも身にしみてわかってきます。
言葉と言うのは「人と意味を共有する」という働きを抜きには考えられないものなわけですね。だから「同じものに対しての興味や関心を共有する」関係(※)をどこまで子どもと作っていけるかということが、言葉が成立するうえで大きな前提になっているということもわかってきます。それは人と人との関係の中でお互いに相手に何かを伝えようと模索する中で生まれてくるので、ロボットにプログラムを入力して言葉をデータとして打ち込んでいくような作業とは根本的に違うのです。
ということで、言葉一つを考えてもそもそも人と人との関係がどう成り立っているのか、そこにどんな困難が見えてくるのか、という視点が外せません。事例検討でも、その子の様子を見ながら、その子を支えている家庭環境、特にお母さんの状態が気になってきます。そしてお父さん。また学校の先生や地域の様子など。そこで子どもをうまく支える関係が作られていない時、そのことに大きく子どもが影響を受けていることもしばしば見えてきます。そうなると、一番の課題は「関係の調整」ということになったりもします。
この関係がうまくいかないと、子どもが周りから否定され続け、自己肯定が出来なくなって苦しむという展開が起こります。
この肯定されるかどうかは、その子が賢いかどうか、できないことが多いか少ないかの問題ではないんですね。前に仙台で自閉などを含む障がい者の作品展を細馬宏通さんに紹介されて見に行って、その製作の様子を動画で見ることができた話をご紹介したことがあったかと思うのですが、いわゆる「平均的な人」ではない作者が、「奇声」を発したりせわしなく動き回ったりしつつとてもうれしそうに作品に取り組み、また自閉的な独特のしぐさを伴いながらその作品を人に見せている。動画からはその人の幸福感も伝わってくる感じがしました。それは十分に自己を肯定できている、そしてその肯定感の上に人とつながれている感じなんです。
ということで、「できる」「できない」の話ではなくて、そういう状態にどこまで近づけるかが一番の課題なんだろう、ということを昨日も「やっぱり二次障がいが問題だ」に書きました。
そんなふうに自分の見方が進んでくると、「この子はこんなことができないから、かわいそうだね」といった感じはほとんどなくなっていきます。できるから幸せ、できないから不幸せ、という感じもなくなっていくからです。あるのは「できない状態を不幸せにしてしまう状況」の問題なのであって、「できない」ことではない、という見方が自然と成り立っていきます。
もちろん「障がい」という言葉で定義して特別の支援体制が組まれるわけですから、平均的な親子関係や友達関係と比べて苦労するところが多くなるのはある意味当然です。「普通のやり方」ではなかなかうまくいかないわけですから、「普通」しか知らない場合は特にそこを調整するのは大変です(もちろんその大変さは「お互い様」なのですけれど)。
でも大変だから不幸だという話ではないでしょう。その大変さが「無意味」に思われてしまえば不幸につながっていきます。でもそこに「意味」を感じられれば、それはむしろ幸福感につながることになります。「できない=不幸」とはやはり違います。
最近の私の体験で言えば、視線が少し動いて見えるだけでベッド上に横たわる重度身体障がいの岩村君とパソコン入力を通して「先生は何の虫が好きですか?」「蝶々です」、「先生は何の鳥が好きですか?」「焼き鳥です」といったたわいもないやりとりができたときの一種の幸福感は、別に彼が「動けない」「音声では話せない」といったことによって妨げられません。むしろそういう「できないこと」がある中で、なおこんな風につながれることのうれしさがより強くなるくらいのことです。
事例検討でそういう観点から事例を論じていく時、そこに参加する支援スタッフの方たち、とくにその事例に取り組んで発表するスタッフの表情が変わっていくことも感じます。それまで「自分が頑張ってやっていることに、本当に意味があるのだろうか?」と迷い、悩んでいたスタッフが、そういった視点からの分析を聞く中で「自分は大事な問題に取り組めているんだ」と感じられるようになられているのかなと、そんな風に想像します。
なかには「なんとなく感じていたことが事例検討を通して言葉になって納得できた」という表現をするスタッフもあります。もやもやとしながらその子とのつながり方を模索してきたことの「意味(意義)」を言葉にして確認できたからなのではないかと思います。それは子どもをよりよく理解できたことの喜びでもあるでしょうし、さらに言えばそう理解することでそのことのつながりがより深まっていくだろうという予感を持てる喜びでもあるのだろうと想像します。
そんな形で支援スタッフの方が笑顔になられると、そのサポーターとしての私もうれしくなります。
その子の療育支援に取り組んできて、頑張っても変化が見えなくてスタッフがつらい思いになってしまう場合もあります。でも事例を丁寧に検討していくと、まずたいていの場合は大事な変化がそこに見つかるのですね。そしてそれは「何ができないのか」を探すことではなく、「何をしているか」「何ができているか」を見ることから見つかることが多いです。そうやってそれまでの自分の苦労に意味があったと感じられるときに喜びが出てきます。そういう事例検討になったときは私もまたうれしくなります。
しんどい部分や苦しい部分、負の部分に目をつむって、こちらにとって都合のいいとこばかり探してぬか喜びをする、というのはいただけませんが、それぞれの子が抱えている苦労を見据える中で、その子の頑張ろうとしている姿を見つけたり、お互いのつながりの深まりを感じられた喜びはやはり大切だと思いますし、それこそが療育支援に力を与えるものなんだろうと思います。
そういうことに事例検討がお役に立っているように感じられることが、アドバイザーとして参加する私の喜びと言うことでしょうか。
※ 「同じ対象への認識を共有する」という面ではこれは「間主観性の発達」として言うことも可能です。相手の主観と自分の主観の関係を理解するやり方の発達、といった意味ですね。ただ、人間関係の事ですから、単に「認知」の問題ではありません。そこに情動的な関係が絡んできます。療育支援がうまくいくにはまず子どもとの間のラポールの形成が大事になりますが、それは療育と言うコミュニケーションを成り立たせるには、お互いの間に「情動的なつながり」が成り立つことが必要だからです。「信頼関係」と表現される方も多くあります。重たい自閉的なお子さんとの間でも、この「信頼関係」が成立する前と後では、まったく展開が変わってきます。
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
投稿はありません