2022.11.21
自閉の人の気持ちが理解できる
今年は駒沢大で「異文化コミュニケーション論」の講義を担当して,社会学専攻の学生さんたちに「異質なもの同士の相互理解」について話をしているのですが,そこで「障がいを文化の問題として考える」という話を一回した後,先週は自閉当事者の大内さんに出題者として登場していただいて逆SSTを授業で実施しました。
受講生の感想を見ると,,「………今回この講義に参加できて良かった。」「………自分の価値観に大きな影響を与えてくれそうだと感じることもできました。」「大内さんとのリアルタイムでの話し合いがとても楽しい時間だった。………」など,みなさんおおむねいい刺激を得てくれたようでした。「………授業時間の関係で、一つのことに関してしか授業で取り扱うことができてなかったので、また機会があれば続きも扱ってほしいと思う。」といった要望もあります。「もっと知りたい」という気持ちが引き出されたようです。
私はこういう講義でも,受講生同士の意見交換を常に重視しているのですが,ただ日本の学生の特徴として(たとえば中国とかでは全然違う),自分から積極的に感想や意見を言う学生がほとんどいないし,その傾向がますます強まっているように思えるのですが,こちらの話について,講師を見てその場でこちらの話にリアルタイムで感情を伝えてくれる学生もほんとにまれです。その姿だけ見ていると自分の講義はそんなにつまらないのかなとがっかりするのですが,感想を書いてもらうとそれとは全然違う学生の姿が見えてきます。それで,交流は書いてもらった感想をみんなに配布する形にしています。この対面状況での表現と書いてもらって出てくる内容のギャップは,なんか講義はYoutubeでも見てる感覚で生じるのかなと想像したりしています。Youtubeの動画にコミュニケーションを返す必要はありませんから。あと日本では「相手を傷つける」「怒らせる」などの「反応への恐怖」がすごくあるように感じるので,対面状況ではできるだけ表情を出さないのかも。それこそ室町時代からの「能面」の,特に女性の面は徹底して表情を抑制した形で作られ,その抑制が破綻すると般若の面に激しく切り替わる形のようですし,さらに「感情を出せない源氏の人びと―日本人の感情表現の歴史」とか見ると,もう平安時代の貴族の文化ではそれが固まっているようですから,このギャップは相当長い歴史的な時間を使って作り上げられ,維持されてき続けたものなのかもしれません。現代の学生の様子を源氏物語に重ねてみるのもちょっと面白く思います。
逆SSTで重視されていることは,当事者に「定型発達者の世界について理解し,適応できる」目指すのではなく,「定型発達者が当事者の気持ちを理解する」ことです。そのことでともすれば「定型に合わせる」一方的なコミュニケーションの形を,「お互いに理解する努力をする」双方向的な形に近づけ,お互いがお互いの特性を認め合って関係を調整する共生の形を模索しようとするわけです。学生さんもその趣旨については理解してくれたみたいで,「………発達障害を持った人に対しての支援をすることは当たり前だと思っていたが、それだけではなく、定型発達者が発達障害を持った人たちの考え方などをどれだけ理解するかも共生には大事であると思いました。」といった感想もあります。
それに対して,来年春に刊行予定の「質的心理学研究」(日本質的心理学会の学術誌・新曜社刊)に渡辺忠温さん・大内雅登さんと共著で書いた理論論文「説明・解釈から調整・共生へ― ― 対話的相互理解実践にむけた自閉症をめぐる現象学・当事者視点の理論的検討」にも説明したんですが,これまでよく使われる医学的な自閉症理解・診断基準は,その基本は「定型からどういうふうにずれているか」という観点からのものです。医学は「健康状態」というものを定義して,そこからずれた状態を「病気」と考え,「治療」して「健康状態」に戻す,ということが基本的な発想として強くありますから,それと同じように「定型」を「健康」のように見なして,そこからのズレで障がいを理解するというのは,言ってみればとても自然な発想になります。
でも様々な特性をもって生きる多様な人々の共生,という課題に向き合うとき,この一見「自然な発想」が大きなくびきとなるわけです。学生さんの感想にも「………教科書的な予備知識のみの情報でそのものの全てを理解した気になるのは間違いだとわかった。」とある通りです。教科書的な説明の多くは非当事者を基準とした理解だからです。
そこで,まずは定型的な発想で単純に当事者を理解しようとしてもできないんだ,ということを強調する必要があります。ということで,逆SSTの前の講義でも,自閉的な発想を私が理解することはほんとうに難しい,ということを繰り返し強調しました。だから当事者に聞いてみることが大事なんだということですね。
そして今回実際に当事者である大内さんとやり取りする場を提供してみて学生さんが得た感想には全く逆の二つの方向がありました。それはひとつには大内さんの考え方が想像できなかったというもの。「ゲストの方の行動や言動は自分からしてみれば、理解できない部分も多く、健常者とは異なる条件を持って生きてきたんだなと感じることができた。………」「大内さんのお話を聴いて、いかに人間が他者のことを理解できないかが分かった。………」といったものです。
でももっと印象的だったのはもう一つの方向で,「今回の授業で大内さんのお話を聞いて、発想としては意外だったがとても理解と共感ができる内容だったことに驚いた。………」「意外に自分でも理解できる感覚を持っていて驚いた。本当にかけ離れた存在というわけではないのだなと感じた………」「………質問に対して、なぜ?どうして?と始めは考えていましたが、大内さんの解説を聞くと、納得できたし理解もできました。さらに、自分だったら同じような行動をしていたかもしれないとも考えました。………」といった,説明されたら理解できてびっくりした,というもので,かなりたくさんありました。
「大内さんの貴重なお話は、「そんな考え方があるのか」と驚きと発見の連続だった。………」という感想にも現れているように,その具体的な振る舞いを見ても,「そういう考え方」がその裏にあるということは想像もできないことが多いわけです。たとえば自閉症の人は他者に対する関心が薄い,共感性がない,他者の気持ちの理解ができない,他者に配慮する姿勢が少なく自分勝手で相手を傷つける,といった「あるある」の自閉症理解は,その振る舞いを見て作られていくもので,決して根拠がないものではありません。
ところが今回の感想にいくつも寄せられたことでは「………すごい気遣いだなと思った」「………解説を聞いた時(大内さんは)解すごく配慮の出来る素晴らしい人だなと感じた。」「………自分では思いつかないような気遣いをしているとても優しい方なんだなと思った。」と,それらの「あるある」理解とは真逆のものです。つまりどういうことでそういう振る舞いになるのか,ということについて,定型によって全然誤解されているわけです。
誤解の結果,相手の振る舞いは否定的に見られることが多く,「そんなことするなんて,理解できない!」となりますから,相手を共感的に理解することは不可能になり,その結果「客観的に」という理屈をつけて,その感情的な世界を切り捨てた「頭での理解」で対応することになります。
ところが今回の講義で起こったことは,大内さんの解説を聞いて,「意外に自分でも理解できる感覚を持っていて驚いた。本当にかけ離れた存在というわけではないのだなと感じたし、この事実をどのように伝えるのかが大切だと感じた。………」という変化でした。そしてそういう変化の結果,次のような意見も出てきます。「自閉症の方は気遣いができないのではなく、そのポイントが他の人とずれているという話はなるほどなと思った。また、そのようなことを私たちが深く理解しようとしていないのではという指摘にははっとさせられた。いろいろな人との共生を目指す現代において忘れてはならないことだと思う。」
つまり,ここで起こったことは以前にもブログで利用した図を使うと,左側の図(現在主流の定型的視点からの支援)から右側の図の方向への転換が起こったということだと理解できます。
これまで私自身が自閉系の当事者の気持ちを当事者との対話を通して可能な限り理解しようと模索を続けて,自分の自閉理解が大きく変わってきたことと,これはほぼ同じ道筋で生じている変化だと思えます。つまり
① 自分には共感できない振る舞いにおどろき,理解しようとするができない。
② その気持ちを共感的に理解する道を諦め,「客観的」に「論理的」「理論的」に理解
する道を探る。
③ その結果,支援は共感に基づく関係調整ではなく,理論に基づく技術的コントロール
に偏りがちになる
④ しかしその姿勢で当事者と関係づくりをしようとしてもうまくいかないで,感情的な
しこりが残り続ける
⑤ 当事者の思いそのものを聞き,自分が外から見た時の理解と著しく違うことに戸惑う
⑥ 当事者からの説明を咀嚼し続けることで,その説明の根っこにある感覚に気づき始め
る
⑦ その根っこの感覚は,人間が普通に持っている心理的な働きとして定型と共有されて
いることを理解でき始める
⑧ 自閉と定型の差は,基本的な心理的仕組みのレベルでは共通性が高いにもかかわら
ず,それがどのように用いられるかのズレにあるという理解が成立し始める
という変化(特に③以降)がここ10年くらいかけて私の中に成立してきたように思うのですが,講義では⑤を強調するところから話を始め,逆SSTで⑥を大内さんに解説していただき,その結果受講生の中に⑦が成立し始めたのだと考えることができそうです。⑧はこれから研究者としてもその構造をしっかり解明していくべき課題だと思います。
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- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
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