2019.09.13
発達障がい者の痛み
北村さんが「アンフェアを生きる」という記事を書かれています。発達障がいを持つことで、ほかの定型の人たちと聞こえの世界が異なり、相手がそのことに気づかれないために、自分の苦労が理解されず、苦しい立場を強要され続けてきていることについての紹介です。
「走れば」と言われて「箸とレバー?」と一瞬聞き間違えてしまうエピソードなど、それだけを読めば笑い話として吹き出してしまうようなことでしょう。言い間違いや聞き間違いはたまにおこるなら、面白い失敗で済みます。
ところがそれが常に頻繁に生じるとなるととてもではないが笑ってすまされません。しかもそういう状況になると、相手は笑うどころか怒り出すわけです。自分の方は相手の言うことが聞き取れずに苦しい思いをしながら、それでも一生懸命頑張っているのに、その頑張りは認められることはなく、繰り返される「失敗」に腹を立てられ、責められ続ける。
人は他人から誉められれば自信がつきますし、人からけなされたり怒られれば自信が失われます。他人から認められれば自分の価値が上がったように感じるし、認められなければ自分に価値がないように感じてしまう。
それは人間の自然な心の働きのようですが、その働きは発達障がい者も基本的に同じなわけです。にも拘わらず、いくら努力しても否定が繰り返されることでどれほど深く傷つくか。
子どものころから積み重なったそういう傷は、心の深く深くに刻み込まれたまま、それにぎりぎり蓋をして生きていく。蓋をしなければ生きていけないからです。もし蓋を取って自分を否定する相手に挑みかかっていけば、逆にみんなから袋叩きに合うのが落ちだからです。
発達障がいというと、「○○が苦手」「○○に困難を抱える」といった形で説明されるのが普通ですし、定型の目から見ればそれはそう実際に見えます。でも、発達障がい者が今の世の中で抱えている「本当の問題」はそんな「表面的」なことではないのだ、ということを、発達障がい者の方たちとのコミュニケーションの中でたびたび思い知らされてきました。
否定され続け、それにあらがうこともできず、ただ痛みをこらえ、傷に蓋をして生きるしか生きられない状況にずっと置かれ続け、澱(おり)のように深く心の底にたまっていく怒りは、外に向けて発散することもないまま、やがて恨みとなっていくこともあります。
そういう人生を強いられやすい状況にあることこそが、発達障がい者にとって本当の問題なのだ、という理解ができるようになるまでに、私の場合は実に長い時間がかかりました。性格的に鈍感ということもあるでしょうが、その理解を多少なりとも可能にするには、発達障がい者にとっては自分がむしろ加害者の立場にもなりうるのだ、という、自己否定のつらい自覚もまた必要になるので、それは決して簡単なことではないからでもあります。
「足を踏んでいる側は痛みを感じない。」という言い方があります。そしてそういう状況の中で踏んでいる側が「別に大して痛くはないでしょう?」と踏まれた側に言う。そういう状況がいくらでもあります。
ただ、だから「定型が悪いのだ」と単純に言うつもりはありません。発達障がいの方の感じ方を理解できないのは、発達障がい者の方が定型の感じ方を理解できないのと同じです。別に悪気でそうしているわけではなく、ただ想像できないから、という場合がほとんどだと思います。
にもかかわらず、お互いに相手のことを想像する力が欠けるとき、踏んでいる側は踏んでいることに全く気付かないということが起こります。そして相手が気づいていようがいまいが、踏まれている側は痛いのです。私もそういうことを繰り返してきたと思いますし、きっと今もそうでしょう。ある意味生きている限り、だれでもそういうことはなくならないのだと思います。
けれどもだからといって絶望的になる必要もないと思います。たとえば北村さんの文章を読むとき、私は多少なりともその痛みを感じられた気持ちになります。もしかすると北村さんは対面的なコミュニケーションではうまく相手に自分の痛みを伝えられないことが多いかもしれません。でもこういう文章によって、多分多くの方が、その痛みに少しは触れられた気持ちになるのではないかと思います。そうすれば、踏んでいる足をそっと外したくなるでしょう。文章にはそんな力があります。
障がいの問題を考えるとき、マイナスのイメージではなく、ポジティヴにそれを考えていくことの大切さを思うとともに、気づかれない痛みの大きさを可能な限り感じ取ることの大切さも思います。浜田寿美男さんはあるところで、苦しみを共有する人と人のつながりの世界を「共苦」という言葉で表しました。
はつけんラボは、そういう場としても成長していってほしいと思います。
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
今回のブログを大変興味深く拝見しました。と申しますのも、私自身も発達障害・精神障害があり、これまでにあった嫌なことや忘れたいことに「蓋をする」という表現に近い言葉を使ってきたからです。
コミュニケーションがうまくとれなかったこと、学習ができなかったことでいじめられたり、馬鹿にされたりしたことにより随分と深く心が傷ついてきたと自覚しています。しかし、反抗する術や力がなかった当時、嫌な出来事を箱の中に入れて蓋を閉め、ぐるぐると鎖を巻いて鍵をつけ、暗い海へ沈めるという想像をしてやり過ごしていました。本当に記憶が曖昧になって思い出すことが難しくなったものもありますが、多くは鎖が劣化し、浮かび上がって蓋が開き、今でも心を苛みます。そして、それは次第に強い恨みとなり、ふとした折に黒いものが湧き出し、心の中に渦巻いているのです。
そのような私も三十歳を超え、苦手なことをカバーできる特技や大切なパートナーができました。しかし、幼少期より抱えた恨みは相当根深く、できるようになったことや特技も、ときに自信をなくしてしまったり、直接関係のないパートナーにさえ心無い言葉で怒りをぶつけてしまったりします。どうしたら恨みを「消化」できるかが長い間の課題でした。そのような中、パートナーと会話を重ねていく中で、障がいに起因する恨みそのものは「消化」できないのではないかと言われたのです。恨みを閉じ込めた箱はなくすことはできないが、たとえ浮かび上がってきてしまったとしても、周りの暗い海がきれいに「浄化」されていれば、恨みから目を逸らすことができたり、気にすることは少なくなったりしていくのではないかということでした。
私は幸運なことに「浄化」する為に力を貸してくれる人に巡り合うことができましたが、傷ついた心を抱える障がいをもつ人の多くは「浄化」していくことに気づいたり、実行したりする「心のエネルギー」が足りない状態ではないかと思います。私自身も恨みそのものを消そうと躍起になり、一人では太刀打ちできない箱の大きさと多さにただただ疲弊し、エネルギーだけを消費していました。そこで、先ず恨みは消えないと気づかせてもらえること、そして、「心のエネルギー」を減らさない、蓄積できる環境を手に入れることが恨みと向き合う第一歩ではないかというところまで考えが辿り着きました。
ここまで長々と書いてしまいましたが、まだまだ結論まで至ることができません。それでも、辛い経験に蓋をして、恨みを抱え続けている大人や、そうなってしまう子どもたちが私を含め大勢います。そのような人たちの為の一条の光をみつけていきたいです。所長をはじめ、皆様のご意見もお聞かせいただきたく思います。宜しくお願い致します。
上島校 松岡
松岡さん
コメントをありがとうございました。
発達障がいの問題は、定型に比べて「◯◯ができない」といった「目の前の」問題以上に、定型発達者との間でお互いに理解が難しい面があることから生まれる「ディスコミュニケーション」の問題と、それからここで取り上げた「積み重なった怒りや恨み」の問題にどう向き合えばいいのか、ということが一番大きなことなんだという気がしています。
発達障がい児への支援の問題は、そのようにディスコミュニケーションの中で解きようもない恨みが積み重なる事態を減らし、お互いの前向きな関係作りを進めやすくする状況を作ることが、ある意味で最大の課題なのだろうとも思うのです。
他方ですでに積み重なって大人を迎えた方とこの問題にどう取り組むかはそれとはまた違う話でもあります。
「浄化」という言葉を読んで、思い浮かんだのは風の谷のナウシカの腐海の話です。腐海は毒を発しながら拡大して人に残された地を飲み込んでいきますが、実はそれが人間によって汚染された大地の毒を体に取り込み、浄化することで、その地下に清浄の大地を生み出していた、というストーリーです。
浄化というのはそんなギリギリのところから生まれるもの、という感じなのかもしれませんね。
つもり積もった恨みとどう向き合うのか、どうそれを越えていくのかは、発達障がいの問題に限らず世界中のあらゆる時代の人間社会で生み出され続けてきた大きな問題だと思います。
たとえば韓国ではその厳しい社会の歴史の中で、「恨(ハン)」という文化的な概念が、むしろ人と人とをとても深いところで繋ぐ力を持つものとして大事にされたりもしていて、民間芸能のパンソリや民間宗教のハンブリといった儀式等を生み出していますし、日常の会話などでもつかわれる、生活に染み込んだ問題になっているようです。
また、恨みは人に向けられるようで、同時に自分自身を蝕んでしまう、ということで、それを捨てた方がよいという考え方も聞いたことがありますが、その言い方だけでは「蓋をする」こととどう違うのかがよくわからないままで、そこが難しいなあと思います。
本当に何か最終的な答えがあるのかどうかもわからないことですが、いろんな方の経験や意見を伺いながら、手探りで何とかギリギリ折り合いのつくところは探していきたいと私は思います。