2020.11.05
感覚がズレると理解は大変
私たちは人と話をするとき、そこに見えているもの、感覚しているものは「同じ」だと、特に改めて考えるまでもなく、当たり前の前提にしていると思います。
昔、奈良女子大学の心理学教室で麻生武さんと働いていた時、麻生さんがピアジェの限界を説明するために、私に話してくれた例がずっと記憶に残っています。それはこんな話です。
もし今手に持っているこれ(コップだったかなんだったか忘れました(‘◇’)ゞ)を相手に見せながら、「このコップがさ、」と話しかけたら、相手がびっくりしたような顔をして「え?どこにコップがあるの?」と聞き返したら驚くでしょう。何で驚くかと言うと、自分が見ているコップは相手にも見えていると頭から信じているからだよね。一人で見ている時でも、他の人も自分と同じようにそれを見ることができるということを頭から確信している。だからその「信念」が崩されるとすごく慌てる。人間はそういうのをとても嫌う。
なぜこれがピアジェ批判になるのかはここではおいておきますが、たしかにそうですね。「あなたが見ていたものは幻覚だ」と言われているようなもので、「幻覚」というのは精神状態が悪いから起こることと感じられるのが普通だからです。「あなた夢でも見てるんじゃない?」と言われたり「ちょっと、大丈夫?」と真剣に心配されたり、「私のことからかってるんでしょう!」とまじめに相手にされなかったり、そんなことが起こります。
「幻覚」というのは、実際にはそういうものがない=したがってほかの人には見えない物を「ある」と感じてしまうことです。他の人からそれを指摘されて、「あ、ほんとうだ」と気づくことができれば「幻覚」ですが、他の人に指摘されても「ある」という確信が揺るがなくなってしまうと、それは「幻想」とか「妄想」と言われることになります。
そうやって見えている世界がほかの人と共有されなくなるというのはお互いに大変に困った状態になります。自分が信じているものが人と共有されず、自分が人と一緒に共有し、そこに生きている世界の足場が揺らいでしまうからです。
幻覚の場合は、それを見る人が勝手に頭の中で作り上げたイメージを、実際にあるものと勘違いしてしまっている状態と考えることができるでしょう。言ってみれば夢で見ていることを現実のことと勘違いしているというようなものです。
ただ面白いことは、この「ないものを見る」というのは心理学的には必ずしもおかしなことではなくて、もともと人間には「ないものを見る」心理的な仕組みが備わっています。図の「主観的輪郭線」はその一つですし、「夢を見る力」や「イメージする力」もないものを「見る」力ですね。問題はそういう「主観的に生み出されたもの」を「物のように本当にそこにある」と勘違いして、人から言われても修正がきかなくなってしまうことです(※)。
発達障がい者と定型発達者の間にも、似たようなことが起こるのですが、問題ははるかに深刻になります。なぜならお互いに見えているもの、感じていることにずれがあるのに、お互いに自分の見えているものは相手にも同じように見えているはずだという思い込みが消えにくいからです。そういう時、大体は定型発達者の方が多数派なので、「これはこうだよね!」とお互いに意見が一致しますから、少数派の発達障がい者の方が「あなたがおかしい」と決めつけられることになります。(「感覚過敏」とか、思い浮かべられるといいでしょう)
でもそうやって否定されたとしても、「そう見える」こと、「そう感じられる」ことは消えません。ただ自分が感じていることを相手が認めてくれない、というつらい状態に置かれることになります。(そこが二次障がいにもつながります)
このことを理解していただくために、視覚障がいの河野泰弘さんの「視界良好2」(北大路書房)から少し例を出してみたいと思います。前にもご紹介したように、河野さんは生まれながらに明るくなったり暗くなったりと言った光の強弱はわかるのですが、「物(形)」が見えるということはない状態です。ですから目で「物」を理解することはできず、手で触れるなど、視覚以外の感覚でそれを理解していくことになります。
そうすると、光の強弱以外の視覚的な体験は、晴眼者と同じものは得られないことになります。河野さんと晴眼者である私とは、その意味では同じ体験は持てないのですね。でも河野さんはこの本のように、言葉を使って私たちに彼が体験している世界を伝えてくれます。そのことで私たち晴眼者も少し彼の体験を理解できるようになります。
そうやって同じ言葉を使って理解を共有できるようになるには、やはりいろいろな苦労があること、それがとても難しい作業であることが、こういう本を読むと私にも少しわかります。たとえば「疲れ目の実感」というタイトルの部分があります(p.36)。河野さんは目をほとんど使いませんから、「目が疲れる」ということがぴんとこないそうです。
そこで彼はこんな風に「目が疲れる」ということを理解していくようになります。
私は点字本を読む時やパソコンを使うときに手が疲れますが、目の疲労は感じません。両手の手首が重たくなることは多いです。そこで一方の 手でもう一方の手首をマッサージするとすぐに治ります。でも長時間パソコン作業をする時は手首がこったようになります。
そんな時は、こういうふうにも考えます。
(私にとって手は目と同じだから、やはり目が疲れているのと同じことなのだろうか…)
まあ、理屈の上では「疲れる」というところで手の疲れと目の疲れは共通のところがありますから、「同じ」と言えなくもないでしょう。たとえば晴眼者でもパソコンで作業しますし、根を詰めてそれを続けると、「ああ疲れた!」という状態になります。その時は「どこが疲れたか」ということはあまり意識せずに全体として「疲れた!」というわけです。
けれどもそれとは別に「手が疲れた」と「目が疲れた」のどちらも意識することはできますし、そう表現できます。そしてそうやって「手が疲れた」と表現した時は、それは「目が疲れた」というのとは違う感覚を表しているわけです。
こんな風に河野さんと私の体験している世界にずれがあるとき、自分が体験できない部分については相手の体験を理解することにはかなり大きな限界が生まれます。
このような例だと割とわかりやすいのではないかと思うのですが、定型発達者と発達障がい者の中で、定型とは異なる見え方、感じ方を生まれながらに持っている、あるいは育ててきている人との間ではそのむつかしさはもう一段深くなっていきます。
なぜなら、視覚障がい者との間では「目が見えない」という理解が前提に成り立ちやすいので、そこに注意しながらお互いを理解しあう努力を始めやすいという点がありますし、さらに晴眼者も目をつぶれば「視覚の手掛かりを使えない」という視覚障がい者の世界を多少は体験できますから、その意味でも理解しやすさがあります。
でも定型発達者と発達障がい者の感覚のズレは、もっと微妙なんですね。そもそもそういうズレがあることに気づきにくい。同じものを見ていると思っていて、それがどのように見えているのかがぜんぜんちがうのに、それにお互い気付かない。たとえて言えば図のような状態ですね(同じもの「?」を見ているとお互いに思っているが、見えているものが違う)。だからそもそも調整の必要性に感じにくいということがあります。
これ、何を見ているかお気づきになりますでしょうか?そうです。切ったスイカです。見る角度が違うと全然違って見えますね。この場合は見る角度を変えれば同じようなものが見えますので、大した問題はならないのですが、定型発達者と発達障がい者では往々にして基本的な見え方、感じ方にズレが起こりやすいので、「角度を変えて相手の見え方を体験する」といった作業自体がかなりむつかしいわけです。
私の経験からすると、そういう場合、相手の体験を、自分の体験に置き換えて想像してみる、という方法がある程度役に立つことがあります。たとえば河野さんのように「手の疲れ」という、自分にも体験可能なことを足場に体験できない「目の疲れ」を想像してみる、といったことですね。上に書いたように完全に一致するわけではないですが、ある程度想像可能になる部分が出てきます。
ただし、この場合でもポイントになっていることは「自分に体験できることで置き換えて想像してみる」というやり方ですので、やはり「自分の体験」がベースになっての理解になっているということです。ですから、ある程度は理解しあえるところが出てきますが、完全に一体化するわけではない。
違う感覚を持つ人同士でお互いを理解するには、そのズレを理解して乗り超える必要がありますが、しかし乗り越えるときにも「自分の感覚」をベースにして想像する、と言う形が多分現実的なことでしょう。その意味でもまずはお互いに、自分の感覚を大事にしながら相手を理解することが必要と言うことなのだろうと思います。そうだとすれば、自分の感覚を頭から否定されてしまっては、相手を理解する手掛かりも失われてしまいますね。
発達障がい児の支援をする時にも、大事に考えておかなければならないことのように思います。
※ 「そんなの単なる勘違いで、本当は見えてないよ」と思われる方ももしかするとあるかもしれません。ところがそう簡単なことではないんですね。実際この主観的輪郭線を利用して、ポンゾ錯視などの「実際の線」を利用した錯視を引き起こすことができます。「ないもの」なのに「見える」、そしてそれが「あるもの」と同じように「錯視」を生み出す力さえ持つのですから、「単なる勘違い」どころではありません。
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