2021.01.26
因果関係の二つの考え方
さて「この困難はだれのせい?」の続きです。
困難の原因を何かに求める(原因帰属)、という話を前回しましたが、実はこの「原因」の考え方にかなり性質の違う二つのパターンがあります。
ひとつは前回考えたような「○○の原因は××だ」というように「一方が原因で他方はその結果」というシンプルな直線的な関係で因果を捉える見方です。そういう見方をすると、原因と見なされた方に何らかの形で働きかけて状態を変えようとする対処の仕方になります。「直線的」な因果関係理解というふうにも言えます。
もうひとつは「○○が××の原因になり、そしてその××が○○の原因になる」と言う形で、お互いがお互いに影響を及ぼしあって出来事が起こる、と言う見方です。この因果関係の見方を「円環的」な因果関係の捉え方、とか、システム論的なとらえ方、などと言うことがあります。
臨床心理学的な「治療」を例に挙げて考えると、たとえば精神分析学はクライエントの「症状」を「その人の内的な心理的な葛藤の構造」に原因があると考え、その人の中の心理的な葛藤の構造を分析してクライエントにも理解させて問題を解決しようとします。行動主義的心理学を基礎理論とするABAの場合だと、困難は「問題行動」の結果であり、その「問題行動」は刺激と反応の組み合わせ方の失敗によるものだ、という理解になるので、その子の中の「誤った学習」を条件付けで修正して「正しい学習」に切り替えようとします。
これらは典型的に直線的な因果関係理解に基づく対応の仕方になります。
これに対して同じ臨床的なやり方でも、たとえば家族臨床などでは異なるスタンスから困難にアプローチします。家族臨床では「困った人(IPと言われたりします※)」を「治療」するのではなく、その人を取り巻く家族に来てもらって、家族の関係に注目します。そうすると実はその家族の関係に問題があり、患者と見なされた人を取り巻く人々の関係全体を調整しなおす、ということを考えたりするわけです。
この場合、因果関係についても別の見方になり、ある人Aの行動が別の人Bに影響を及ぼし、その結果生まれるBの行動がまたAに影響し、と言った形で「めぐる因果は糸車」、因果関係が循環的なものとなっているんだと理解するわけです(※)。
この見方は問題を単純に個人のレベルで考えず、複数の人々のコミュニケーションのシステム(相互作用システム)の問題としてとらえるということになって、原因の考え方が違うので、当然問題へのアプローチの仕方も変わっていくことになります。絡まり合って循環的になる因果関係の全体のシステムを見ながら、そのシステムを調整するにはどこにどう働きかけていくかを考えるわけです。家族内のバランス(力動)の再調整、といった言い方もできるかもしれません。
さて、人間困ったときにはとりあえず「すぐに解決できる方法」が欲しくなります。テレビのリモコンが電池切れになったときには新しい電池に変えれば簡単に問題解決、というふうに、あるいは部屋が暗かったら電灯のスイッチを入れたら問題解決、という風に、問題によってはシンプルな形で「これをすれば大丈夫」というものもあります。
けれども人間関係に絡む話はなかなかそういう単純なことで解決することは少ないですね。なにしろいろんな要素が絡まっていますから、その一つをいじったところで全体がうまくいくとも限らないわけです(上の図)。ひとつの要素を「刺激」することで、要素間の関係が活性化されてそれ自体で新しいバランスに到達することもありますが、それはあくまでひとつのきっかけとなる「刺激」を提供しただけのことであって、新しいバランスはその要素間の相互作用それ自体によって主体的、能動的に生み出されたものです。
このブログでは、発達障がいが生み出す困難と言うものを、単純に直線的な因果関係で理解する視点で済ませようとはしていません。いろんな要素がからんでそれは生み出されていきますし、そもそも「何を発達障がいと言うのか」という基本的なところでも、それを社会関係の中で理解する視点を重視しています。社会が変われば障がいの範囲も変わるし、その意味付けや対応の仕方も変わるといったことですね。
これからも単純に誰かの責任とか、どういう要素が原因と言った見方ではなく、いろんな要素が絡まり合う中で、支援者もその中のひとつの構成要素として子どもを中心にそのつながりに関わっていくコミュニケーション活動の一つとして支援を考える視点から、問題を考えていきます。
※ IPはidentified patient、つまり患者さんとして(周りや本人が)認めている人、みたいな意味になります。たとえば子どもが不登校になったとき、その子に原因があると考えて「患者」と見なすようなとき、その子はIPということになります。でも実際はその子は周囲の状況からそうならざるを得なかったという風に考えられた場合、その子は単に「患者」に見られただけであって、ほんとうの原因はその子じゃないんだ、という見方も成り立ちます。IPという概念は、そういうふうに柔軟に問題を見るうえで必要になるものでしょう。
※ こういう因果関係の捉え方の違いは、司法の場にもよく見ることができます。連帯責任みたいな考え方が強かった中世の法とは異なり、近代法では基本的に問題を個人単位でとらえますから、「だれに責任があるのか」をはっきりさせるという形で問題に対処します。そしてたとえば犯罪が起こった場合、「原因」と見なされた個人を処罰する、という、直線的因果関係理解に基づいた対処が行われるわけです。
これに対して近年重視されてきている「修復司法」という考え方では、処罰よりもそこで傷ついた関係を修復する(関係を回復する)にはどうしたらいいのか、ということを重視して考えますが、そういう視点を持つ「司法臨床」(犯罪者への臨床心理学的な視点からの更生を目指すアプローチ)の分野でも、円環的な因果関係に注目する対処が行われたりします。(例:廣井亮一2021「司法臨床」:サトウタツヤ他編、「法と心理学」10章。有斐閣)
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