2021.03.08
「栄光浴」という心理的仕組みと定型=自閉系の感覚のズレ
アスペルガー系の方が比較的獲得しやすい人生観に、「人は自分一人の力で生きていくしかない」という覚悟のようなものがあると感じています。
もともと「自分の視点」に注意が集中する傾向があって、なにしろ自分の苦しみは周囲の定型には理解してもらえない。周囲の人たちの生き方も理解しにくい。自分が相手のためにと思ってやったことがひどく否定される。助けを求めても定型的な視点からの援助で、自分の気持ちにあった援助や解決法が得られない……。
そういう体験の積み重ねから、「人は人を理解できない。人は人を助けられない。人は自分の力で問題を解決するしかない」という人生観が育っても、ある意味当たり前だろうなという気がします。
ところで自己評価についての社会心理学のかなり昔の議論で、自己評価維持モデル、というのがあって、とても面白いので心理学概論の講義などではよく話をしていたものがあります。これは人間が自己評価を高め、逆に下げないためにいろいろな心理的な工夫を無意識のうちにやっているんだ、ということについてのモデルです。
その方法の一つに、「栄光浴」というのがあって、たとえばこんな行動がそれにあたります。人にこんなことを自分から話したり、人から聞いたり、みなさんも思い当たることはないでしょうか?「あのさ、僕、あの○○(有名人)と知り合いなんだよ。」「実は私の先祖は織田信長(歴史上の有名人)なんです。」「高校の先輩に○○(有名人)がいてさ。」「私のお父さんは有名会社の社長なんです。」
そういわれた側は「へえ!すごいじゃん!」となることが多いですよね。「あ、そう」であっさり終わることは少ないでしょう。そして、言っている側は、なんとなく自分が偉くなったような気分になっていたりします。
アメリカでこういう調査もあります。たとえば自分の大学のチーム(アメリカだとアメフトとか、熱狂的ですね)のチームが勝ったあとは、大学の名前入りのTシャツなどを着る割合が増えていたんだそうです。また自分の大学のチームが勝った時はそのことについて話すときに「僕らのチームが……」みたいに自分に引き付けて話し、負けたときには「あのチームが……」のようにちょっと距離をとった話し方になる、といった調査結果もありました。
これ、なにかというと、「ある人や団体が人から称賛されるような有名で価値の高いものである」ばあい、その人と自分が深い関係がある、ということを相手にアピールすることで、自分もその仲間として価値が上がったような気分になることです。そして実際周りからも「すごいねえ!」などと、そう言った人がうらやましがられたりします。それで言った方は自尊心が高まり、自己評価が上がるわけです。
でも冷静に考えれば、それは別にその人自身の価値には関係ないとも言えますよね。別に自分が頑張って有名になっているわけでも、いい成績を得ているわけでもない。ただほかの人が「栄光」を獲得して、自分は努力することもなくそのおこぼれにあずかろうというずるい(あるいはとても賢い)戦略だと言えます。人の「栄光」のおこぼれを自分も「浴びる」ということで、「栄光浴」ということになります。
私なんかも有名人と会ったりすると嬉しがって人に話す方です。だいぶ前韓国に行った時も、インチョン空港で飛行機を降りて歩いていたら、ほんの2,3メートルの距離でとてもきれいな女性がテレビカメラを向けられいたんですが、通り過ぎてから一緒に行った友達に「あれ、チェジウだよね」と言われてびっくりして早速戻って確認して、それからみんなにうれしがって「報告」したことがありました(笑)。このミーハーさも、実は「栄光浴」の一種というわけです。
さて、この「価値あるものと自分とのつながり(たまたま会ったみたいな希薄なつながりも含め)」によって自分自身の価値が高まったように感じてしまうという人間の心理は、とても興味深いもので、これが人とのつながりを求め、「集団」に自分を帰属させようとする動機にもなります。ということは……、ここでお気づきになられた方もあるかもしれませんが、もしかすると「人とのつながり」にあまり期待を持たず(あきらめざるを得ず)、むしろ「自分自身の問題」に焦点を当てて「自立した生き方」を追求する態度が強まりやすい(と思える)アスペルガー系の人の場合、この「栄光浴」みたいな話は、かなりピンときにくいのではないでしょうか。
もちろんアスペルガー系の方の中にも、組織の中で徹底して自分自身を鍛えて業績を上げ、上の方で組織を背負って活躍する人もありうるわけですが、ご本人としてはそれはあくまで「個人の努力の問題」という理解になりそうな気もします。
ただ、栄光浴のもうひとつの面に、こういうことも考えられます。今度は自分が何かの成果を実際に挙げた人の立場からの話しです。その人が自分の「栄光」について親しい人に話したとします。そうすると、その相手も自分の「栄光浴」を浴びて、うれしくなるだろう、と無意識に思って、「一緒に喜んでほしい」と話すような場合です。こういうのも日常でしばしばみられますよね。
たとえば家族の誰かが「出世」をした。そのことを家族に話すと、家族も喜んでくれる。みんなで一緒に喜びを分かち合う。これも「自分の身近な人が栄光を浴びたから、その周囲の人もそれにつながって栄光を浴びることができて、みんなうれしくなる」といったことを無意識に思っているようです。
ところがもしこの「栄光浴」で「みんながうれしい」といった感覚が薄い方の場合、たとえばアスペルガー系の方で、その傾向が強いほど、栄光浴のような話は自分には関係なく、たとえ相手がそういったとしてもそれはその人の問題で、自分には全然関係ないことという感覚になりそうです。そして「じゃあなんでこの人は私に自分の成果を一生懸命話すのか?」と考えると、「結局この人は私に自慢をしたいだけなんだ」という理解にもなるでしょう。
こういった「自慢」についての理解に、どうも定型とアスペルガー系の方の間にズレが生じやすいように思えるのですが、その理由を「栄光浴」という心理的な仕組みから考えるとわかりやすく思います。ただし、なぜそのような「栄光浴」についての態度の違いが生まれるか、という原因については、いろいろな要素が絡んでいる可能性がありそうです。
ひとつは自閉系の一般的な特性として、「まず自分自身に注意が向きやすい」という傾向があり、いろんなことを「自分の視点」を中心に理解することからそうなる、という部分。またそれまでいろいろの苦労させられた経験から「他者とのつながり」についてかなり懐疑的にならざるを得ず、人の喜びと自分の喜びは切り離して考える傾向が強まる、という部分。さらには「人は自分の力で生きるしかない」という信念が強まり、定型的な生き方は「なんでも群れたがる」困った傾向だと感じる価値観が強まる、という部分、などです。
それで「みんなでいろいろやる」ことを重視する傾向の強い定型発達者は「栄光浴」もよく活用してお互いの結びつきを強めるようになり、その定型的な集団からは排除されやすいアスペルガー者はそういう「栄光浴」の用い方についてとても懐疑的になり、場合によっては強く否定的に理解するようになっていくのかもしれません。
実際にはいろいろ検討すべき問題も多そうですが、とりあえずこういう見方で見てみると、定型とアスペルガー・自閉系の方のコミュニケーションのズレのある面について、いろいろわかりやすく感じます。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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