2021.03.13
発達障がい者が傷を受けやすい理由
今回は少しくらいお話になりそうです。お化けが出てきます(笑)
まずは明るい話から。私は将棋の藤井聡太さんの「生き方」にとても興味を持っています。巷では彼について「人格者」だというような評価が良く見られます。たとえば自分の実力は相手の棋士よりもはるかに上でも、決して礼儀を失わず、相手の将棋について記者から聞かれても、決して相手を貶めるような言い方をせず、「異次元の力」と言われるようなものすごい記録を打ち立て続けてそれについて感想を聞かれても、記録には興味がなく、ただ次の将棋を一生懸命打ってもっと強くなりたいと淡々と語るだけ(本心と見えます)だったり、とにかく「おごる」ことがなく、ひたすらに「将棋」に打ち込み続けている純真な姿、一種求道者とも見えるような、そんなイメージからでしょう。
ただ、その状態を「えらいなあ!私には到底無理だなあ!」とは思っても、「人格者」という表現でいう事には私自身は少し違和感もあります。これは私の勝手なイメージなのですが、「人格者」は人生にもまれもまれて、葛藤の中で作られていくもの、という感じを持つからです。その意味で「人生の修行」が大事な要素のような気がします。
藤井さんも小さいころに将棋で負けると周りが困ってしまうような大泣きをするなど、ご自身の中では当然周囲の子どもより強い葛藤を抱えていたとは思えますが、「人生の修行」という面ではまだまだ入り口ですから、今の彼の姿はどちらかというと持って生まれた素質を、周囲に振り回されることなく、自分自身に素直に守って大事にしてきたことでできてきたもの、という感じがします。そして将棋の世界というとても独特の世界が、そういう生き方を認めてくれる環境であったということでもあるでしょう。もちろん単なる想像ですけれど。
その藤井さんが最近の師匠との対談でこんなことを言っているのにちょっと興味を惹かれました。「将棋以外の才能で、あったらいいなと思うものはありますか?」と尋ねられ、師匠の杉本さんに続いて彼はこんな風に答えています。
「願ったらキリがないので、与えられたものでやっていくしかないです。」
ある意味これもまた結構年にならないとこういう答えをさらっとは出来ないでしょう。仏教の言葉で言えば「吾唯足知(自分はただこのままで足りていることを知っている)」にも通じそうで、人格者と言われても無理ない感じがありますが、ここで言いたいのは人格者かどうかではなくて、「与えられたものでやっていくしかない」という、この言葉です。
この言葉、異次元の天才と言われる藤井さんがいうところがまたすごいわけですが、でも単なる事実の問題として冷静に考えれば、これはすべての人に当てはまる言葉で、別に特別の話ではありません。
だれだって親から与えられたこの身体で生きていくしかないわけで、そこを抜け出すわけにはいかない。うまれたときや生まれた場所を選ぶこともできません。自分の親が好きであろうがなかろうが、自分から親を選ぶことはできません(親も子どもを選べませんが)。自分自身も生まれ育つ環境も、どうしようもなく「与えられた」ものの中で生きるしかないわけです。
ですから、人に許されているのは、そういう「与えられたもの」をどうやって工夫してよりよく生きていけるか、と言う事だけです。これは男でも女でも、日本人でもアメリカ人でも中国人でも、縄文時代の人でも現代人でも変わることのない、ある意味で永遠の真実でしょう。
ただし、人は人の中で生きています。そして人々が作る社会の中で生きています。そして人は人に対して何かを期待し、求め、社会もまた人に何かを要求します。ここでその人が与えられたものと周囲の人が求めるものとの間にはふつうズレがあります。人は常にこのズレを調整しながら生きているのですが、このズレの大きさは、人によって、場合によってかなり違います。
ズレは葛藤を生み、その葛藤に人は苦しみます。適度なズレはそれを克服しようとする人に向上心を育て、その克服への努力がその人を成長させていくでしょう。でも過度のズレはその人に無力感を感じさせ、自己否定的になったり、あるいは激しい他者否定に向かうかもしれません。
誰もが生まれながらに与えられたその人なりの特性を持っていますが、たとえ同じような特性を持っていたとしても、周囲が彼・彼女に求めるものがその特性に合っていれば、葛藤は少なく、その人は肯定的な人生を送りやすくなるでしょうし、そこがあっていなければ個人の努力では調整が追い付かず、苦しい人生を歩まざるを得なくなる可能性が強まります。
子どものころに負けると大泣きをしていた藤井さんは、やはり周囲の平均的な子どもに比べると気性の激しさを持っていたのでしょう。場合によっては「カンの強い、手に負えない、困った子」とだけ見られてしまったかもしれません。もしそれだけの環境だったら、彼はこんなに素晴らしい成長はむつかしかったでしょう。将棋という独特の世界が彼をしっかり受け入れてくれるという環境があったから、彼のそういう性格がむしろ大きな成長への原動力ともなったと思います。
でももしそういうふうに、自分を認めてくれ、肯定してくれる環境がないままであったらどうなるでしょうか。多分全く違う展開になったことでしょう。
さて、ここまではある意味誰にでもいえることのお話で、ここからは発達障がいの問題です。発達障がいの人は、定型が持っている平均的な特性とはかなり離れた特性を持っています。感覚過敏といわれるように、その人にとって心地よい感覚の質や強さが定型の平均的なそれからかなりズレているとか、人の気持ちや行動についての感じ方が定型的なものとはかなり違う面を持っているとか、知覚世界の作られ方に定型とは違う特性があり、目と手の協応などの知覚=運動の関係づけの仕方に定型とは異なる特性があるなどなどです。
そういったいろんな特性が、定型の平均的な特性とずれているため、発達障がい者は定型の特性に合わせて作られた社会が求めているものとのズレが大きくなりがちです。ですから、そのずれに対処し、調整して生きることのむつかしさは定型発達者の比ではない、ということになります。定型であれ発達障がいであれ、「与えられたもので生きていくしかない」という基本は全く同じなのですが、その与えられたものと社会から求められるもののギャップの大きさにあきらかな違いがあるわけです。
当然発達障がい者の方がその点で定型発達者より「不利」な条件で生きていることになります。そこで抱える「困難」はより大きくなる可能性が高いわけです。そこには明らかに不平等があります。
理想としては、お互いにお互いの特性を認め合って、お互いに無理のない関係を作っていけるといいのですが、現実はなかなかそうなりません。そもそもそういう発達障がいの人には今の状況がかなり不利な環境になっているのだということ自体について、気づいている人がまだまだ少ない状況です。だから問題は「発達障がい者にある」と考えがちで、「お互いに認め合う」関係には程遠い状態です。
そういう状況の中では不利な環境に生きざるを得ない発達障がい者は、その環境の中で生きる道を探るしかなくなります。そこで生まれる葛藤はとても大きく、しかもその葛藤は「障がいのせい」という形で自分自身の責任にされて、逃げ道もありません。
そういう厳しい状況でも、たとえばアインシュタインのように、ずば抜けて人に認められる才能をごく一部持っている人の場合は、その力で困難を乗り切っていくことになるでしょう。でもそんな人はほんの一部で多くありません。もし自分の特性にあった環境の中に生まれていれば、もっと生きやすくなったかもしれないのに、それがないために抱える葛藤、困難がとても大きくなり、そこから逃れるすべもなく、そして周囲にもそのことを理解してくれる人がないとすれば、その状況を仕方なく受け入れてその中で生きざるを得なくなります。
というところまできて、いよいよお化けの登場です。
最近、幽霊が出てくるようなドラマとかを見ていて、妙にリアルに感じたりして面白がっています。悪霊とか祟りとか、幽霊はだいたい困った話に結びついていて、「幽霊がでてきてうれしい」という話は多くないでしょう。だいたい嫌がられますし、悪霊払いとか、退治の対象になったりします。
あの幽霊ってなんなのかなと思っていたのですが、結局今のところたどり着く理解は「恨み晴らさでおかりょうか~」なんですね。だいたい幽霊になる人は、生きている間にものすごく深い心の傷を受け恨みがつみかさなったまま死んでしまうわけです。で、そういう幽霊に対する対応の仕方の有力なものは「恨み」を何らかの形で解いてあげることになります。(※)
日本の例でいえば「天神さん」はまさにそういう対応の仕方の典型で、大宰府に流されて不遇の死を迎えた菅原道真の怨霊を鎮めるために作られたのが天神さんです。そうやって神様に祭り上げることで「許して頂戴!」とやったわけですね。幽霊に対して「成仏してください」と頼んだり、お経を読んだりお払いをするのも似たようなものでしょう。
なんでこんな話をするかというと、これまでいろんなアスペルガー系の方たちの話を聞いてきて、ものすごく深い傷を抱えられている例にしばしば出会うからです。私自身もそういう方たちの気持ちが理解できずに、知らず知らずに傷つけていることもあります。傷つけられることもあります。実際は意図的にそうしようとしてそうなるわけではなく、理解できないのでそうなってしまうという例も少なくありません。アスペルガーに限らず、障がいを持つ方にはそういうことが少なくないように思います。
場合によってその傷が、人に対する恨みとして深まっていくこともあります。これは別に障害の有無に限らず、人間関係では誰でも起こりうることですが、障がいという特性があり、それを受け止められない環境があるために、そうなる危険性がとても大きくなり、逃れるのが定型よりはるかにむつかしかったりするわけです。
定型発達者と発達障がい者が、お互いの特性を否定せず、それを前提にしながら、うまく折り合いをつけてお互いの間に生まれる困難を軽減し、可能であればそれをプラスに活かしていくような、真の共生の道を探る、という作業をここではやろうとしているわけですが、そのことを考えていく中で、このどうしようもなく深い傷の問題、そして蓄積される恨みの問題の理解を抜きには、その作業は表面的な「なかよくしましょうね!」というスローガンで終わってしまうのだと感じます。
そういう問題が重要なものとしてある、ということを、幽霊が登場するようなドラマは結構リアルに感じさせてくれて、そこが今の私にとってとても興味深いことなのだと思います。
※ 幽霊が実在するかどうかについては人によっていろいろな見方があると思いますが、心理学的に見れば、以下のように考えれば特に不思議な現象でもないと思えます。
人間はもともと「ないもの」を見る力を持っています。たとえば夢なんかその典型ですね。このないものをイメージする力は、知覚システムの発達の中で生み出されてきたものと考えられます。知覚のシステムは、外界からの刺激を解釈して「これは○○である」という判断を与えるのですが、その際、物は別の物の裏にあればその一部しか見えなかったり、与えられる刺激は完全ではないので、ない刺激を補って「○○である」という風に解釈する仕組みが作られているわけです。比喩的に言えば、自分の頭の中にイメージを生み出して、それを外からくる刺激に当てはめてみて、当てはまりのいいイメージを選択して「○○である」という解釈にたどり着く、といった感じです。
このような力が「記憶イメージ」としても活躍することになります。すでに存在しない過去のことをイメージとして思い起こすことができるわけです。さらにはもともと存在しないイメージを作り出すこともできます。空想のイメージですね。これらは人間が生きていく時に欠かすことのできない基本的な心理的力になります。これらは感覚から知覚へと発展した心理的な力の基本的な仕組みの応用版と考えられると思います。
そうすると、私たちはすでに亡くなった方についてもイメージの世界で思い出すことができます。お墓参りをして亡くなった方と話をする、みたいなシーンもドラマなどでもよく描かれますが、人としてはすでに存在しなくても、私たちはその人の生前のころに積み重ねた関係をそのまま心理的な世界では引きずっています。「死者と対話する」というのは、とくにオカルトでも何でもなくて、私たちが普通にやっていることです。実際、死者ではなくても、遠く離れて暮らしている人のことを思い出していろいろその人と「対話」することもありますが、それを同じことを死者のイメージとやっているだけとも言えます。
こういう力が人間に備わっているから、先祖崇拝のようなことも起こります。もう死んじゃった人だから関係ない、とは言えないわけですね。ご先祖様がリアルに私たちの今の生活に影響を及ぼしてくる、そんな世界があるわけです。イタコなんかは死者との対話をリアルにやってくれることです。
ということで、私たち人間は「ないものを見る力がある」ということ、そして「死者とも対話する力がある」ということ、この二つを組み合わせると幽霊が出来上がると言う事になります。相手が自分に対して恨みを持って死んでいたことを知っていた場合、その人の死後もその恨みを感じつつ生きることになります。場合によってはそのことに大変に苦しめられることになる。その苦しみを説明するものとして、「死者のイメージ」が生み出される。それが幽霊です。
別に知り合いでなくてもいいですね。単に自分が極度に不安な状態にあるとき、「幽霊」というイメージで作り出すことによってその不安の原因を特定し、対応しようがない不安を具体的な対象を持った「恐怖」に置き換えることで対処の仕方を模索できるようになるので、少しマシになる訳です。原因がわからない不安は非常につらいですから。そういう時に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という話にもなります。
以上の話はその全体が実験などによって確かめられているわけではないわけですが、個々に積み重ねられた研究で得られた心理学的な理解を組み合わせていけば、幽霊もそんな感じで心理学的に解釈することも可能だということになります。信じるか信じないかはあなた次第ですが(笑)。
「
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