はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.03.22

自閉を生きる:その振る舞いの意味

アスペルガー当事者の大内さんのエピソードなどをいろいろ伺っていて、またその解説を聞いていると、とにかく驚きの連続になります。どうしてそういうときに、そうふるまうの?というのがまるで謎になります。

 

今回の第一回逆SSTで大内さんが出された問題もまさにそういうもののひとつでした。自分はブラックコーヒーは好きではないし、おなかにもあまりよくない。好きなのはミルク入りに甘いコーヒー。ところが人が見ているところでは絶対にブラックコーヒーしか買わないし飲まない。

別にそうすることで「あの人はブラックコーヒーを飲むかっこいい人だ」と見られたい、ということでもなさそうです。それも全くないのではないかもしれませんが、少なくともそれが主な理由ではない。

とても不思議なのは、別に大内さんがブラックコーヒーを飲んだからと言って、だれも得をしていないということです。別にそのことで周りの人がうれしいわけでも何でもないし、仮に甘いコーヒーを大内さんが飲んだからと言って、まわりが傷つくわけでもない。中には「苦み走ったカッコよさ」を感じる人は皆無ではないかもしれませんけれど、まあそんなことが多いということでもないでしょうし。

結局のところ、「大内さんはブラックが好きなんだな」と周りは理解して終わりでしょうし、しかも大内さんは本当は甘いコーヒーが飲みたいので、大内さん自身何か得をしているようにも見えないわけです。というか、損をしていますよね。「コーヒーはブラックでなければならないのだ」という固い信念をお持ちのわけでもなく、ほかの人が見ない場であれば、甘いコーヒーを飲まれるのです。

一体それがなんなのかについては、また別途いろいろ解説されたり、議論があるでしょうから、ここでは控えます。ただ、こういう、私にとってはとても不思議な話を繰り返し聞きながら、ようやく少し見えてきたように感じることがあります。それは自閉系の人にとっての「人に対する振る舞い(表現)」の意味が、通常の場面での定型とはかなり違う面を持っている、ということです。

 

とりえず今現在私がこういうことかなと感じているのは、次のような違いです。それは自閉系の方たちにとってはしばしばコミュニケーション上の課題は「自分の気持ちを相手にうまく伝える」ことではなく、「(自分の気持ちを理解できない)相手に対して、どうふるまうとうまく乗り切れるのか」というものになっていそうだということです。

この違い、うまく伝わるでしょうか。

まず前提として、多くの自閉系の方は、自分の気持ちがうまく周囲(の主に定型)に伝わることに基本的に絶望に近い、あるいはあきらめ的な思いを抱いています。自分の気持ちをうまくくみ取られた経験が極めて乏しく、逆に誤解、曲解されることが連続するからです。でもその誤解を解こうとしてもうまくいかない。

まあ、たとえば東京の人にとっての津軽弁とか薩摩弁とか、ほとんど外国語のようにわからない、時々わかることもある人と一緒に暮らしている状態をイメージしてもらうと少しだけわかりやすいかもしれません(もちろん違いはあるのですが)。

これは自閉系の人だからということではなく、定型でも同じですが、自分の素直な気持ちがどうやってもうまく伝わらない状況に置かれたとき、人はなんとか「相手に通じる言葉」を探そうとします。それが自分の気持ちをうまくあらわしたものではなくても、最低限相手に対して効果のある振る舞いを探すわけです。

このとき、二つのパターンがありえます。ひとつはとにかく暴力的にであっても、「相手を従わせる」やり方を見つけることで自分の目的を達するようなやり方です。それによって相手がどう感じるかはあまり問題になりません。もうひとつはなんとか相手のやり方を自分なりに理解して、それに合わせて相手に対してふるまうことで、目的を達成しようとすることです。

異文化の中で暮らしていると、よくこういう二つのパターンが生じる、というのは私自身の異文化体験からも言えることです。

ここで上の話に関連して特に問題になるのが、後者の「なんとか相手のやり方を自分なりに理解して、それに合わせて相手に対してふるまう」方です。ここでポイントは「自分なりに理解して」ということなのですが、やはりそれは多くの場合ずれた理解なのですね。(※)

そうすると、本人は周りに合わせてふるまったつもりですが、周りの人はなんかへんな、なんのためにそうしているのかよくわからない振る舞いをしているように見えます。そして実際その振る舞いは、本人自身にとってもしっくりしていない振る舞い方なのですから、「なんでそんなことをするのか?」ということを本人に問いただしたとしても、うまく答えられないということになります。

そうやって、結果としてはだれにとってもあまり益のない、何のためなのかわからないやりとりの展開が生まれてしまう、ということが起こります。

コーヒーの話もどこかこのパターンにはまっているようにも感じられるのですね。

ということで、ポイントは

自閉系の方たちにとってはしばしばコミュニケーション上の課題は「自分の気持ちを相手にうまく伝える」ことではなく、「(自分の気持ちを理解できない)相手に対して、どうふるまうとうまく乗り切れるのか」というものになっていそうだ

ということになるわけです。そして繰り返しますが、このような振る舞い方は、実は自閉系の人に限られることではなく、異文化の中に入って自分を理解してくれない(誤解ばかりされる)人の間で生きなければならなくなった時、定型でもしばしば陥る状態だということも重要です。私が発達障がいの問題を文化の問題としても考える必要があるとする理由のひとつでもあります。

 

もしこの見方がある程度妥当だとすれば、ここを定型の側がうまくつかめていないと、自閉系の人の振る舞いを、「その人の本当の気持ちがあらわれたもの」として考えてしまい、「その本当の気持ちはいったい何なんだろう」とおかしな問いを続けることになります。その振る舞いにはその人の本当の気持ちはストレートには含まれておらず、単に「どうふるまったらこの場を無事乗り切れるか」ということについての、その人の理解の仕方を表しているだけだからです。

こういう理解の仕方でどこまで問題をうまくつかめるかどうか、これからも注目していきたいと思っていますが、今のところ大内さんの場合だけではなく、自閉系の方たちと間で経験してきているある程度つっこんだやりとりについて、この理解でわかる部分が結構ありそうに感じています。

 

 

※ このような異文化間でのコミュニケーション(ディスコミュニケーション)については、私たちはたとえば「おごり」の意味をめぐる文化的理解のずれについての研究などでもかなり議論を続け、興味深い現象を見出してきました。特にこの問題について突っ込んで考えられたのは韓国籍の呉宣児さん(共愛学園前橋国際大学)で、私たちと共同研究を始めたころはすでに日本での暮らしも10年以上になり、日本で子育てもされて、日本でのやりかたも身についてそれほど苦も無く生活できるように感じられてきた頃でした。おごりについても日本のやり方は韓国と全然違うことを理解して、日本にあわせたやりとりもされてきました。ところが共同研究の中で日本の研究者がもつ「おごり」の意味理解と、呉さんが持つ意味理解が全く正反対であるという現実に直面して大変にショックを受けられます。たんに「こういうおごり方をする」という振る舞いの理解はそれほどずれないのですが、それが何のためなのか、どんな意味があるのか、どういう価値観につながるのか、ということについては、まったくお互いの理解がずれてしまって、一致できないのです。この研究者間の葛藤の経験についてはいくつかの場所で分析をされていますが、一番まとまった形では次の文献があり、日経新聞の書評でも注目されていました。

呉宣児 (2016) 文化差が立ち現れる時・それを乗り越える時 (高橋登・山本登志哉編 子どもとお金:お小遣いの文化発達心理学、東大出版会、第10章、)

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コメント欄(コメントは団体会員と個人会員Aの方が可能)

  1. じんべい じんべい

    「自分の気持ちを理解できない相手に対して」という部分に、なにか大事なことが含まれているように感じました。
    その背景には、いくら言っても分かってくれない・分かろうとしてくれない・どうせぼくの(わたしの)気持ちなんて分からないんだろうという諦めとか、絶望が、あるのではないでしょうか。