はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.04.10

自閉的な人も文脈を読む

「自閉的な「嘘」を形成論的に考える」に大内雅登さんから頂いたコメント「大内さんからの応答:文脈理解の自閉的な展開」をヒントに、また少し話を進めてみたいと思います。

私の理解で大内さんのコメントのポイントをまとめると、次のようなことかと思います。

 

いつもながらに興味深い大内さんのエピソードは、自閉傾向の先生に、自閉傾向の男の子のお母さんが「車の中の話、面白かったから先生に話してみたら?」と促したところ、先生の方がそれを聞いて「う~ん、先生ができる車の中の話は『部品』の話かなぁ」と答え、それを聞いて男の子がちょっと困惑してお母さんの顔を見た、という話でした。

大内さんはこれを自閉あるあるの例で、それは自閉的な文脈理解の仕方の特徴が表れたものとして分析されました。

大内さんの分析の重要なところは、この話はしばしば「自閉系は文脈を読めずに、文脈関係なしの言葉の表面理解で会話するので、とんちんかんなやりとりに終わる」という単純な理解になってしまいがちだが、決してそうではないのだ、というところかと思います。

確かにこの自閉系の先生は、親子の会話の背景の文脈である「車の中でした話」ということを理解しそこなっています。それで「字義通り」に「車の中身の話」と受け取った。でもこれは「字義通り」に受け取ったのではなく、先生自身が「車の中身の話」という文脈を設定して理解しようとしたということです。つまり文脈の設定の仕方がずれていたわけですね。しかもそのズレの存在の可能性を大内さんから問われて、なんとなく感じ取ることもできている。

もっとはっきりしているのは男の子です。この子はお母さんのことばの文脈「車の中でした話」を理解しています。ところがその文脈とは異なる文脈で先生が返してきたことで、困惑してお母さんの顔を見たわけです。つまり文脈の混乱になんとなく気づいていて、お母さんに助けを求めたわけです。

 

以上の話について、二つのことを思い浮かべました。

一つめは子どもも先生も文脈のズレで混乱しているのだけれど、なぜ子どもはお母さんの設定した文脈をすぐに理解し、同じ自閉傾向を持つ先生はそれができなかったのか、ということです。

これについてはこういう説明が可能かと思います。つまり、子どもにとっては実際にその話の文脈をその直前に車の中で自ら体験していた。そのため、子どもにとってはその文脈はある意味「視覚化」されて「目に見える」形で理解されていたわけです。ところが先生にとってはその文脈が全く見えていなかったので、どういう文脈で理解したらいいのかに混乱した。そこで自分自身で思いつきやすい「車の中身」という文脈でその言葉を理解して応答した、ということになります。

つまりここで問題になっているのは、文脈無視で字義どおりに理解しているかどうかではなく、文脈の設定の仕方のズレの問題として理解したほうがいい、ということ、そしてズレを感じたときに、どうそれを調整するかについて、定型とは異なる視点から調整しやすく、それが結果として相手の文脈を無視して自分自身の文脈で話してしまうことになる、という結果になるということです。

そう考えると、「字義どおりになる」と定型から評価されやすいのは、相手に合わせた文脈の想像について苦手さがあるため、意味が分かりにくいときは一番使われやすい文脈、一般的な文脈をとりあえずあてはめてみるから、ということになりそうです。

改めて言えば、これは「文脈を読まずに字義通りに理解する」話ではなく、「文脈を相手と調整することの苦手さ」の結果だということになります。男の子はそういう文脈はすでに「視覚化」された形でお母さんと共有されていたために、お母さんとの間ではずれが生じなかった。でも先生との間にはずれが生じ、そのことに気づいている、ということになります。

 

二つめは、そういう「会話の内容の共有」を実現するための調整に困難が生じるときに、会話の中身ではなく、「会話を成り立ったようにふるまうこと」自体に重点を置く姿勢が形成されていくようだ、ということをどう理解するかというポイントです。

これについては再び供述分析の話で「未理解同調」という面白い概念があります。

前回少し触れたように、犯罪を疑われた被疑者は、実際には犯人ではない場合でも取り調べの中で自白に追い込まれることがあります。また目撃者も実際の体験と異なる供述をすることがあります。

この「あえて自分に不利な自白をする」という不思議な現象にはいくつかタイプがありますが、わかりやすいのは「身代わり」の自白です。家族の誰かを守るため、とか、やくざ屋さんなら兄貴分や親分を守るために別の人が名乗り出たり、取り調べられて自白したりするケースです。あと、精神的または肉体的な拷問や恐怖に耐え切れずに、あるいは何らかの取引を持ち掛けられて嘘の自白をする、ということもあります。これも特に肉体的な拷問がある場合にはわかりやすいかと思います。

いずれも自白する人は「嘘を言っている」という意識があるわけですが、それともう一つはそのあたりの意識も怪しくなるケースが存在します。これが一番わかりにくいケースでしょう。さらに供述(証言)をしても自分に直接の不利益がないような、あるいは逆に何か利益があるような目撃証言の場合は、明確にうそをついている意識がなくても、体験と異なる供述を行う場合もあります。これも「意識的な悪意」が認められないので、なぜそうなるのかが一見理解しにくいものです。

「未理解同調」はこの後者の方のわかりにくい供述を理解するために作られた概念の一つで、冤罪として確定した甲山事件に関して弁護団から頼まれて行ったシミュレーション実験(「生み出された物語」にまとめられています)を一緒にやった共同研究者でもある、大谷大学の脇中洋さんが供述分析を行う中で作り出したものです。

この「未理解同調」という概念で「なぜ会話の中身ではなく、会話を維持すること自体が目的になるのか」ということを説明できる部分がありそうだと思いました。

 

まずは具体例を挙げて概念の内容を説明します。

人は年を取ると、耳が聞こえにくくなることがあります。「耳が遠くなる」という話ですが、医学的には老人性難聴といわれるものですね。それまで何の不自由もなく耳が聞こえて適切に受け答えしていた人が、だんだん相手の言うことが聞こえなくなる。それまでできていたことができなくなる、というのは誰にとっても結構ショックなことでしょう。

そのことについて、「まあ、人間誰でも年を取ればそういうもんだ」と開き直って、周りにも隠さずに生きるタイプの人もいます。でも中にはそれを「自分の弱み」のように感じ、決して人に悟られないようにしようとする人もいます。

そういうときに何が起こるかというと、本当は相手の人のいうことをよく聞き取れず、何を言っているのかわからないにもかかわらず、適当に想像して応答してしまうのです。そうやって聞こえないことをごまかすんですね。つまり何の話かについて、その内容は「未理解」なんだけど、相手との会話に合わせる「同調」行動をとる、ということで「未理解同調」という話になります。

 

こういうパターン、別に老人性難聴に限らず、結構いろんなところに私たち自身経験していないでしょうか。

たとえば私は「研究者」という社会的な立場を持っていて、研究者の世界で(も)生きているわけですが、研究者の世界では「知らないことは恥だ」「理解できないことは恥だ」という感覚が結構あります。私はあんまり恥じらいがない方なので(笑)、学会のような場でもわかんないときは素朴に「わかんない」と言って「教えて」ということが多いのですが、逆に「知ったふり」をすること、人も決して少なくありません。

研究会とかで誰かがすごいむつかしい話をして、私は何を言われているのかわかんなくて考え込んだりするときに、周りの人たちがふんふんとうなづきながら笑顔で聞いていて、「へえ、この人たちすごい、こんな話すぐ理解できるんだ」とびっくりしたりすることがあります。ところがあとで聞いてみると、実は全然わからないままうなづいていたりするんです。もっとひどいのは、そのむつかしい話をしている人自身がよくわからないまま話してたりするんですね(笑)。結構そういうことがあります。

難しい言葉で話せば、それ以上相手につっこまれることが少なくなるので、「安全」になる、ということもあります。だからあえてむつかしい言葉で話したがる人も少なくないように感じています。(※)

このあたりも、老人性難聴で「聞こえていない」ことを人に知られないようにする、というのと同じような心理的な仕組みが働いていると言えます。コミュニケーションの場で、自分が有能に活躍しているのだと人から見られたいという欲求がそういうことを生じさせるわけですね。

ただ、この未理解同調は「かっこをつけたい」という話に限定されません。理解できないことを責められ続けて、そのつらさを逃れたいときにも生じます。とりあえずわかったようにふるまうことで、そのしんどい状態を逃れようとするわけですね。

もう一つは「理解できていないことが理解できていない」場合です。つまり相手の質問の意図、意味がよく理解できていないのに、そのことに気づかないまま、自分なりの考えで相手に答えてしまうような例です。

この三番目が幼児や知的障がいを持つ人(供述弱者とも呼ばれます)にしばしば起こります。取り調べの中で、何を聞かれているのか、聞き手の真意がうまく受け止められないまま答えていく中で、そのよくわからない答えに混乱しながら取調側が自分の頭で整理して質問を重ねていき、そのうちにその聞き方の枠の中に聞かれている側が無意識にはまり込んでしまって、結果として事実とことなる物語を作り上げてしまう、ということが実際に起こります(それを幼児で実証したのが「生み出された物語」のシミュレーションです)。でも話している方はそのことの重大さにも気づかなかったりするんですね。聞き手にも話し手にも悪意がないまま生み出される冤罪です。

この場合も「よくわからない」状態の中で「会話を持続させる」ことが目的になるようなパターンになります。

 

自閉系の人が、とにかく定型に理解してもらえない状態を子どものころから繰り返す中で、二つの方向に分かれるかもしれません。ひとつは「理解されない」から「コミュニケーションを避ける」パターンです。もうひとつは「理解されない」けれども「なんとかしてコミュニケーションに応じようとする」パターンです。そしてそもそも人とコミュニケーションをするというのは、つまりはそういうことなんだという理解が定着してしまうのかもしれません。この後者の場合に定型から見てわけのわからない自閉的なコミュニケーションパターンのひとつが生まれるという風にも考えられそうです。

定型から見ると不思議なコミュニケーションを、形成論的に考えると、ひとつにはこういう解釈が可能になりそうです。

 

※ ということで、むつかしい話をすごく簡単な言葉で話せる人はすごい人だと感じます。浜田寿美男さんも典型的にそのタイプで、話はものすごく深いのですが、使われる言葉は平易で、ご自身も自分で話される中身について「普通のこと、あたりまえのことでしょう」と言ったりするんですね。確かにそうなんですけど、簡単なことを簡単に話すのは当たり前ですが、むつかしいことを平易に語れるようになるのは相当そのことを深く理解しなければできないことです。大内さんもかなり重要な問題を、とても具体的な事例によって説明してくれるところがすごいなあといつも思います。よくわかっていないことをむつかしい言葉でごまかすのは困ったもので、むつかしいことをむつかしい言葉でいうのは普通。むつかしいことを本当に平易な言葉で話せるのは一番すごいと感じます。私もその境地はあこがれの世界で、少しでも近づきたいものだと日々修行中です。

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