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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2021.04.14

定型だって「クレーン」やってる?

このブログは「当事者の視点から考える」ことを大事にしていますので、発達障がいの「症状」といわれるものについて、逆の立場から同じように考えたらどうなるだろう?という一風変わった思考実験を繰り返してきました。今回もまたそういうことになります。

 

特に言葉の遅い自閉系の子でしばしばみられる「症状」に、「クレーン現象」というのがあります。ここでも何度か取り上げてきました。ポイントとしては、その行動の仕方は、働きとしては人への要求になっているんだけど、やられた方としては物のように扱われたように感じてしまう、ということ、そしてなぜそのように感じるかというと、「自分の意志(あるいは意図)に働きかけてくれず、体を物理的に動かされる」からだと考えました。

そうなる理由は、自閉系の子が「相手の意志(意図)に働きかける方法」がわかりにくいからだろうと想像されるわけです。ですから、別に相手を物のように考えているわけではなくて、お互いの意志や意図をどう伝えあって関係を調整するか、そこがわかりにくいから、実際は「相手への要求」なんだけど表面的にはそういう形になってしまうというわけです。目を見て訴えかけたり、言葉で要求したりしませんし。

さて、ここで重要なことは「相手にどう働きかけてわからないとき、物のような扱いになる」ということです。まずこの「物のような扱い」ということをもう少し説明しましょう。

人と物は何が違うか、それは人は意図をもって行動し(行為し、ふるまい)、物は意図をもっては動かないということです。だから、人が物に働きかけるときには「物の気持ち」は普通は考えません。ただ自分の目的に従って物を動かします。けれども人に働きかけるときは「相手の気持ち」に働きかけることで、相手自身にも主体的に動いてもらおうとします。

たとえばお店屋さんの人が手に持っている商品を欲しいと思えば、「それください」といって「お金を渡す」ことで、相手から能動的に「商品を渡してもらう」ということをやりますよね。それをせずにいきなりお店の人の手の中の商品を取れば、それは「強奪」になり、おまわりさんのお世話になることになります。この時相手からいうと「自分を無視され、暴力的にふるまわれた」と感じることになります。

こういう例なら自分の振る舞いが「暴力的」で「相手を無視している」ことがわかりやすいと思いますが、次の場合はどうでしょう?

時代を少しさかのぼります。東洋医学では「脈診」というのが基本中の基本にあります。手を取って脈の様子を見ることで、どこがどう悪いのかがかなりわかるというものです。今なら血液検査だのCTなどで調べるところでしょうけれど、そんなものはないですしね。でもそんなものがなくても、すごい人はかなりいろいろなことがわかるようです(歴史ドラマとか見ているとですが(笑))。

さて、お医者さんが王室に呼ばれました。お姫様が病で寝付いているので、診てほしいということです。それでそのお医者さんはお姫様の部屋に入り、「失礼いたします」と声をかけて寝ている彼女の手を取って脈診を始めました。………

仮にこういうことがあったとすると、おそらくこのお姫様はかなり暴力的に扱われたように感じるのではないかと思います。男性が高貴な女性の肌に触れることはかなりのタブーだったと考えられるからです。だから脈診も「糸」で行われたりします。手に結んだ糸を離れたところからもって、糸を伝わる振動で脈診をするというのですね。

そんな微妙な振動を感じ取れるほど指先が敏感な人なんてほとんどないでしょうし、そういうことがどこまで可能だったのかは私にはわかりませんが、しばしばそういうシーンに出会います。

いずれにせよ、「相手に何かをしてもらいたいとき(この場合なら脈をとらせてもらいたい)」にどうやって相手を納得させて、相手の意志でそうしてもらうか、について、文化が違うとかなり違いがあるので、その文化のやり方を知らないと、「相手の意志を無視した」ことになり、暴力的に物のように扱われたように感じられるというわけです。

ということで、「相手にどう働きかけたらいいのかわからない」時に、それでも相手に自分の要求どおりの動きをしてもらいたくて働きかけると、相手からすると「暴力的に、物のように扱われた」と感じることになるのだ、と言えそうです。自閉の子のクレーンもそういうことで理解可能ですね。

 

さて、ここで同じことを立場をひっくり返して考えてみましょう。

自閉的な子の感じていること、考えていることを定型が理解するのはかなり困難なことがしばしばあります。「こだわり行動」と名付けられているものも、「なんでそんなことをいつまでも繰り返すのかが理解できない」ことからそういう名前が付きます。本人にとっては意味のある行動に違いないのですが、それが見えないのですね。

それでそういう行動をやめさせようとしたりします。

このとき、子どもの側から考えてみると、自分としてはやりたいこと、あるいは必要なことをやっているわけです。それをやめたくはないわけです。でも外側から強制的にそれをやめさせられるということが起こる。何のためなのかも理解できない。当然納得できることではありません。

そんな風に考えてみると、これって定型の側が自閉の子の意図に沿って、それに働きかけるのではなく、外側から自分の都合の良いように動きを強制するということにもなっています。………ということは上の説明からすると、これは定型が自閉の子に対して「クレーン」をやっていることにはならないでしょうか?

 

もちろん自閉の子に限らず「やってはならないこと」や「これはやらなければならないこと」については大人が教えていく必要があるので、子どもが常に好き勝手にやってもいい、という話ではないでしょう。でもたとえ定型の子であっても、「やってはならないこと」や「やらなければならないこと」ばかりで行動を縛られて、「自分がやりたいこと」を無視されたら、これは大変につらくなるはずですし、いつか爆発するでしょう。

定型の子の場合は定型の大人はその子のやりたいこと、やりたくないことが感覚的に結構わかることが多いですし、そのことにある程度共感的に接することができますから「そうだよね、これをやりたい(やりたくない)よね」といったんは共感的にその子の気持ちを受け止めたうえで、「でも今はこれが必要だよね」、と、子どもにも納得してもらいたいという形で働きかけることになります。

ところが自閉的な子の「こだわり行動」は、定型には意味が分からないし、共感しずらいわけですから、前提として「そうだよね、これをやりたい(やりたくない)よね」という受け止め方がとてもしにくいわけです。そうすると、単純に「やりたくないことを押し付ける」「やりたいことをさせない」という一面的な働きかけだけになってしまいます。子どもの側からすれば、かなり暴力的な扱いと感じられるでしょう。

 

このあたり、どうやって乗り越えたらいいのかはむつかしいところです。一般的にはまずおおらかさが周囲には必要になりますし、その子自身の気持ちに沿った形で、その子なりの主体的な行動を大事にする、ということが上手にできるほど、子どもの困難は減ることになります。でもその子にとって自然な、あるいは必要と感じられている行動が、定型にはわかりにくいだけではなく、どうしても許せないと大人が感じてしまう状況があると、そういうおおらかさを維持することが困難になります。おおらかさは「我慢」になってしまうので、いずれ爆発してしまうでしょう。

ただ、逆SSTなどでも見えてくるように、実は「全然わからない」のでもないのだと思います。少しずつでも自閉的な主体性の在り方を理解する道をさぐっていくことが、この問題への重要な対処法になると思います。それは「その子の主体性を無視したクレーン」ではなく、「その子の主体性とこちらの主体性の調整をしていく」過程になるはずです。

 

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