はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.04.24

花は自分の美を知らない

youtubeでとても面白い動画を見ました。

セザンヌの絵に描かれたリンゴが、転げ落ちるようなところに描かれているのはなぜ?という話です。

 

結論をばらしてしまいますが、その理由は「絵が下手だから」!!

つまり、デッサンとか現実を無視してるということみたいです。

セザンヌって、近代絵画の開祖みたいに言われているらしいんですが、彼が若いころは絵というのはどこまで現実に近く描き出せるかが、その人の画力を表す重要なポイントだったようです。言ってみれば写真みたいに描ける必要があったわけですね。いまでもそういう驚くような技術を持っている人がいますけれど。

でもセザンヌはそれがとてもへたくそだったらしいんです。

そこからが面白いんですが、そこでセザンヌは居直ったらしくて、「絵は現実をそのまま映す必要はない」と思ったらしいんですね。それで自分が感じたままに描く道を進んだ。それが画期的なことだったようです。

心理学ではいろはのいに当たることですが、人の心理は外界のものをそのまま理解しているわけではありません(※)。常に自分の理解の仕方に合わせて、ある意味加工して受け取っています。その意味で「主観的」ですし、それをわかりやすくあらわしているのが「錯視」の現象です。だって物理的には同じ長さが自分の主観的な体験としては違う長さに見えたり、まっすぐな線が曲がって見えたり(右図:へリングの錯視)するわけですし。

でも錯視が起こるには起こる理由があるわけで、ある意味生きていくうえで必要な力(空間を理解するためのしくみなど)が生み出した現象だとも言えます。私たちは「客観」によって生きているわけではなくて、「主観」を手掛かりに生きています。ただ単に自分の個人的な「主観」だけで突っ走るとほかの人と理解がかみ合わなくなったりしてトラブルので、お互いの主観を調整して生きる、ということもやっているわけですが(つまり間主観的な世界の作り方)。

だから絵だって、物自体に正確に迫らなければならない、ということはなくて、自分の主観に映ったそれ、感じたままのそれを描いたらいいじゃない、という考え方だってありでしょう。

前にも書きましたが、私たちが幸せを感じるのは自分の主観によって、ですよね。夕日を見て美しいと感動するのは、私の主観です。太陽は自分を美しく見せようと頑張っているわけではありません。そういえば「花は自分が美しいことを知らない」という言葉もありました。美を感じるのはそれを見る側で、見られる「物」ではないのです。

 

「物の世界の理屈」と「心の世界の理屈」は同じではない(※※)。セザンヌの絵を見て心が豊かになったとしても、同じ場面を写真で撮ったものを見てもそうはならないでしょう。考えればあたりまえのことなんですが、私たちは意外とこの当たり前のことをしばしば見失なってしまうように感じます。

 

 

※ 哲学的にはこの「そのままの外界(カントの物自体)」というものをあるとするのかどうかは大問題で、近代哲学はここで難問にぶつかって足踏みしてしまい、「心とは何か」「主観とは何か」という心理学の基本的な問題についてもそこで混乱しつづけてきたので、こういう言い方は本当はちょっと不十分なのですが、ここではとりあえずわかりやすい表現にとどめておきます。

※※ その違いが生まれる原因として大事なことは、「物の理解」は人の主観が物という対象を理解することであり、「人(心)の理解」とは人の主観が他者の主観を理解することである、という違いでしょう。「物は志向性を持たない」ということもできますし、他者理解は「相互の志向性の構造化だ」とも言えますが、そういう主観間の関係が心を生むのですから、それは物の理解と仕組みが異なって当然と思えるのです。

 

 

 

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