はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.05.07

定型と自閉系で話がかみ合わない理由

第一回の逆SSTでもそのことが具体的に見えてきたかと思いますが、自閉系の人と、どうも話がかみ合わずに混乱することがよくあります。

通常はその理由は「自閉系の人が定型の言うことの意味を理解できないから」とされるか、あるいは「自閉系の人が嘘をついているから」、あるいは「自閉系の人が自分の気持ちを理解できていないから」といった形で意味づけられておしまい、ということになります。

たしかに定型的な視点からいうと、自閉系の人が「本当の気持ち」を言ってくれていないと感じることがあるのは事実ですし、議論しようとすると話が全然まとまらずに「言うことがその都度変わってしまう」といらだつことも起こります。それで「無責任にいい加減なことを言っている不真面目な人だ」と感じてしまうこともあります。

ところが繰り返し述べてきたように、それは「嘘をつこうとしている」とは考えにくいのですね。なぜなら「嘘をつく」というのは誰かの利益を守るために、事実と異なることをわざと相手に伝えてだます、ということですが、自閉系の人の一見「嘘」にも見える発言は、だれの利益にもなっていないし、相手を欺こうとする意図も感じられないし、実際その効果もなかったりするからです。

また、定型だっていい加減に話すことはいくらでもあるように、自閉系の人もそうすることは当然ありますが、しかし本人はほんとに真剣に話そうとして、それがいい加減に見える展開になるという場合も確実に存在するのです。

定型の視点からいうと、こちらの言うことを理解していない、と見えることがあるのは事実ですが、でもこれも繰り返し述べてきたように、定型は逆に自閉系の人の言うことを理解できないことでもあるので、その点ではお互い様の事です。

ということで、定型的な基準からすると「自閉系の人はやりとりが下手だから話がかみ合わない」と感じるわけですが、自閉系の人からすればなんで自分の気持ちがうまく伝わらないのかがわからず、やはり「定型とは話がかみ合わない」と感じることになります。

どうしてかみ合わないのか、その秘密がなかなかわからなかったのですが、大内さんとやりとりしていて一歩理解が進んだように感じたことがあります。それはこういうことです。

 

まず、世の中的には定型的な感覚に基づいて言葉が使われることが多い、という現実があります。つまりことばの意味、イメージは提携にとってわかりやすいものです。自閉系の人も、この社会で生きていくうえでは、そういう定型的な言葉遣いをある程度身に着ける必要があります。

ところが基本的な感覚や視点の持ち方のところで定型とは特性上ずれが生まれているので、定形にとっては苦労なくほかの人から学び取れる言葉のニュアンスがぴんと来ない、ということが起こります。この状態が自閉系の人がことばを習得していく過程で普通に生じる大前提となる条件です。

定型同士で言葉の意味が通じ合いやすいのは、基本的な感覚や視点の持ち方に生まれながらに(定型的な特性として)共通性が高いため、その言葉で相手が何を言おうとしているかの文脈がつかみやすいからです。逆に言えば定型と自閉系の間では、その共通性が相対的に小さいために、相手が何を言おうとしているのか、その意味の文脈がつかみにくいということが起こります(※)。ということで両者の間では意味の共有がむつかしくなります。

そういう状況で育つ自閉系の人にとって、ことばというのは基本的に自分の感覚にはうまくフィットしないものであり、ぴんと来なくても相手と合わせるしかないものになりやすいはずです。つまり自閉系の人にとってはことばは相手と話を合わせるための手段であって、本当に自分が感じていることの意味を共有するためのツールにはなりにくいのだ、ということになります。

ということは、自閉系と定型の間では、そもそも「ことばは何のためにあるものか」「どんな働きをするものか」ということについての基本的な理解にずれが生じていくことになります。やや大仰に言えば、そもそもの言語感覚、言語観に大きなずれが作られていくわけです。

そう考えると、最初に書いたこと、つまり

自閉系の人が「本当の気持ち」を言ってくれていないと感じることがあるのは事実ですし、議論しようとすると話が全然まとまらずに「言うことがその都度変わってしまう」といらだつことも起こります。それで「無責任にいい加減なことを言っている不真面目な人だ」と感じてしまうこともあります。

ということが起こる理由が説明可能になります。自閉系の人にとってことばは自分の素直な感覚、本当の気持ちを相手と共有するためのツールである、という感覚にはなりにくいのです。そしてそのぴんと来ないことばでなんとか相手とやりとりをしようとしますから(※※)、あることを相手に言ってみて、相手が納得しなければすぐに言い方や言う中身を変えて、相手が納得するポイントを探そうとする、といったことが起こります。それは本当に自分が思っていることを伝えようとすることではなく、なんとかそこで相手の問いに答えてその場を乗り切ろうとする努力です。ところがこれは定型からすると、「無責任に言うことをころころ変えている」「不誠実な応答」と見えることになります。

そういう状況の中で、自閉系の人は「定型はどういえば納得しやすいのか」というパターンを読もうと頑張ります。相手の理解に基づく対応ではなく、とりあえず「こうふるまえばこう返ってくる」という、それこそ「刺激=反応」の形式的なパターンで読み解こうとするわけですね。ところが定型は定型なりに「刺激=理解=反応」というステップで行動するので、そういう形式的なパターンの読みだけではしっくりこないことになります。しかもこの「理解」というのが、あくまで「定型的な理解の仕方」なので、感覚や視点が異なる自閉系の人にはそこが読み取りにくい謎の部分になる、というわけです。

ということで、自閉系の人が定型とコミュニケーションするときには、結局「本当に感じている意味」を置き去りにして、形式的に相手と振る舞いを合わせる、という表面的なやりとりになることが多くなるわけです。

こんなふうに考えてみると、私としてはいろんな問題が見やすくなるように感じています。また、そういうズレの問題をちゃんと考えることなく、定型的なパターンを一方的に学ばせようとする療育支援の限界がどういうところに出てくるのか、ということもわかりやすくなります。

そのズレが具体的にはどんな形で現れ、そしてそのズレはどのように発達していくのか、ということについては、定型の視点だけから考えて理解しようとしても無理です。あくまで発達障がい当事者の人との丁寧なやり取りの中で、少しずつその内容を明らかにしていく、という作業を積み重ねていく必要があります。それはほんとにこれからの課題ですね。(そういうことを本格的にやっている人たちが世界中でどこにいるのでしょうか。不勉強でまだ聞いたことがないのですが、ご存知の方はぜひ教えてください)

 

※ わかりやすいのは「あれ」とか「これ」「あそこ」などの指示詞の意味理解でしょう。相互行為論の研究で「指さしの意味」がどのように相手と共有されているかを丁寧に分析するものがありますが、それも「あれ」といって指さしたとしても、それが何を意味するかは指だけ見ていても、「あれ」ということばを聞くだけでもわからないからです。「あれ」が共有されるためには、言語外の意味の文脈が必要になります。その文脈理解の仕方で、同じ場面での「あれ」がそこにある机の事なのか、机の上のお皿の事なのか、その机のスタイルの事なのか、または机の色の事なのか………、無限に近い可能性があります。ですからその意味をくみ取るには、相手がどういう文脈に注目して「あれ」と言っているのかをいろいろな手掛かりを使って絞り込んでいく必要があるのですね。この文脈理解は、言語化されない「状況についての注目の仕方」が関係するので、その注目の仕方(感覚や視点の持ち方)が異なると、うまくその文脈を共有できなくなるわけです。
※※ だとするとおうむ返しはそのような応答の仕方の典型例ということになります。

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