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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2021.05.22

就労支援と「学び」(2)土台作りとしての学び

就労支援と学び(1)では、「就労に必要な知識や技術・社会的技能」を身につけるという「お勉強」的な学習だけで支援がうまくいくものではない、ということを、「学習」に関する心理学や教育学のいくつかの考え方を例に説明してみました。

そのことを公開講座『成人障がい者の支援を考えるシリーズ』の第1回目の講座「多様な『学び』で変わる支援 ~障がい当事者の可能性を広げる新たな試み~」で行った当事者の方へのインタビューなども踏まえてもう少し具体的に説明してみましょう。

 

就労支援の現場でスタッフの皆さんが一番苦労されるのは、たとえばパソコンソフトの使い方をどうやって上手に教えたらいいか、とか、必要な挨拶の仕方や身だしなみをどう教えたらいいか、ということではないようです。比較的重い知的障がいがあって、理解力にある限界がある場合には、そういう面での「教え方」の工夫も大事になりますが、でも実際に就労支援の現場でより大きな問題になるのは、そういう「学習」に取り組む意欲、あるいは挑戦への自信といった心理的な部分のようです。

就労移行支援に携わって全国トップクラスの素晴らしい成績を上げてこられた方にお話を伺ったところでは、技術習得など、就労に結び付く積極的な姿勢を持てている方は半分いればいいほどだそうで、残りの方はその手前で悩まれているそうです。

たとえば講座で私がインタビューをさせていただいた水越さんの場合、いわゆる知的な力、学習の能力はとても高い方です。20年以上になる長い引きこもりの中でも、勉強への欲望はずっと手放せず生きてこられていました。ところが周囲の人たちとの違和感、周囲から求められるものと自分自身の欲求との葛藤を抱え、その悩みにエネルギーを奪われてその先に進めない状態が続かれたようです。

それは周囲から見ると「なにもせずに怠けているだけ」とみられる可能性があるわけですが、ご本人からすれば本当に誠実に悩み苦しみ続ける結果なのです。そういう状態の中でも、医療的な支援も受けつつ、情報処理関係の資格を取られたり、就労支援、作業所の経験などを経て、少しずつ自分の気持ちを整理して、就労にも挑戦されたのですが、生来のまじめさで頑張りすぎて、1年半で退職せざるを得ない状態になられました。

 

この種の問題はおそらく就労移行支援や就労後の支援についてかなり広く見られることだろうと想像しています。実際以前、障がい者雇用について先進的な取り組みをされているある大企業の部署にお邪魔して、担当の方にお話を聞くことができました。そこでとても印象的だったお話は、知的障がいの方たちに対する支援についてはだいたい見通しが立ち、うまく回るようになっているのだが、むつかしいのは発達障がいの方たちで、いまだにどうするのがいいのか見えてこない、という意味の事でした。

発達障がいでも、学習障がいであれば、特性上苦手な「読み書きそろばん」のいずれかの力を、たとえば「手書きで書く」ことであればタイピングなどの技術で補えばいいわけですが、特に人間関係に悩みが起きやすい特性の場合には、そういう個々の「技術」だけでは対応できないんですね。ちょっとドラマチックな表現でいえば、そういう方が悩んでいるのは単なる「知識」や「技術」ではなく、その人の特性に合った形での人と共に生きるための知恵、「人生の知恵」がなかなか見つからず、そこでつらい思いをすることなのだろうと思えるのです。

知的障がいだけの方であれば、その方たちが苦手な「知識」や「技術」の部分をうまく補う仕組みを作って支援すれば、それに支えられて仕事もできるようになる。ところが発達障がいで苦しむ多くの方の問題はそこにはないから、だからその大企業の担当者の方もどうしてよいかわからなくなる、というのが現実だと考えられます。

そうやって周囲との軋轢、葛藤を乗り越える道が見えないまま、発達障がい当事者には苦悩が積み重なり、やがてうつ状態、引きこもりなどになっていく。あるいはたまった怒りがどこかで爆発する人もあるでしょうし、そしてそのことでさらに周囲との葛藤が決定的な状態になってしまったりします。

私の理解では、「みんなの大学校」を立ち上げて支援を必要とする成人障がい者への学びの場の提供を行っている引地さんが、「学び」ということを障がい者支援の軸に据える必要性を感じられたのは、まさにこの問題をごまかさずに向き合おうとされたからだろうと思います。だからそこで強調される「学び」は単に「知識」や「技術」の取得の支援ではないわけです。むしろその大前提になるもっと基本的な力の学びです。

私がインタビューさせていただいた水越さんは、ひきこもりになって20年以上悩み続け、そして引地さんと出会って大きな転機が訪れます。引地さんが丁寧に丁寧に水越さんとのコミュニケーションを重ねる中で、水越さんがそれまでの自分をひとつひとつ見つめなおすことになりました。そうやって自分のこれまでの悩みを振り返り、自分を理解しなおすことを通して、そこで悩み苦しんできたご自分を受け入れながら、その先にご自分のこれからを考えられるようになってこられたのです。

 

関連して、文科省が「障害者の生涯教育」についての施策に取り組み始め、先日のそのプロモーションビデオが公開されました。

ここでもそのような取り組みの先進的な事例として「みんなの大学校」が紹介され、引地さんがその意義について語られていますし、さらに水越さんも自分の思いをそこで語っていらっしゃいます。引地さんはそこで学びを次のように語られます。

我々の支援の仕方というか、考え方として、being doing havingという説明をよくして(います)。自分が「どうあるべきか(being)」そこで「なにを行動して(doing)」そして「何を持つべきか(having)」という。だからhavingというのは、いわゆるスキルを身に着けることなんですけども、スキルが最後なんですよね。でも土台(being)をちゃんとすることによって自然とdoingしてhavingしていける、ということを社会全体が考えていければ、学びというのは、やっぱり学びという土台が必要だよね(ということになります)

就労支援を受ける方の半数あまりがなかなか就労のための「スキル」習得に向かいきれず、就労活動に全力で取り組むことがむつかしいのは、そもそも土台のbeingがしっかりしていないからだ、ということになります。逆に言えば水越さんが引地さんとのコミュニケーションの中で実現してきたように、beingという土台がしっかりとつくられていけば、そこを足場に自らの力で「自然とdoingしてhavingしていける」状態になる。その土台作りこそが「学び」だというわけです。

 

急がば回れ、という言い方があります。多くの障がい者は、ただただ急がされてきたのだと言えるように思います。でも本人にとって本当に大事な道を急がされたのではなく、自分には合わない定型的な道を急がされます。その結果、定型的にみれば「無用な回り道」に見えるけれども、実はその人にとっては本当に大事な道を歩めなくなる。当然無駄にエネルギーを費やすことになり、疲弊してしまう、ということが起こりやすくなります。定型から見た「回り道」は、実はその人にとっては「王道」なのですから。

「学び」は周囲から求められているものとのギャップを前に、自分自身を見つめなおし、周囲との自分らしい付き合い方を創り出していく、そういう創造的なプロセスとして考えられることになります。

変化が激しい現代社会で重要となる力は、すでにある知識を身に着けることではなく、自分なりに新しい問題に取り組んでいける姿勢や力をつけていくことだ、ということがよく言われています。引地さんの言う「学び」は、実は変化の激しい現代社会の中で、障がい者に限らずすべての人に求められているこれからの「学び」なのだと私は感じます。だとすれば「学び」を通した就労支援は、そういう現代的な課題の最先端に位置するものだ、と見ることもできるのではないでしょうか。

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