はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.05.27

就労支援と「学び」(3)経験を語る内側の目の大切さ

引き続き公開講座「多様な『学び』で変わる支援 ~障がい当事者の可能性を広げる新たな試み~」のインタビューから考えたことです。

私がインタビューを担当させていただいたのはみんなの大学校の学生委員長をやっている水越さんです。

水越さんは幼児期から周囲との違和感を自覚し始め、高校時代にはついに不登校になってそのまま退学し、以降20年以上の引きこもり状態が続いて、いくつかの医療支援や就労支援、就労とその挫折の経験などを経て少しずつ自分を見つめなおす中で、今は「継続できる就労」をひとつの目標にしながら、「みんなの大学校」での学びを通して足場づくりをされている方です。

私は発達心理学を専門とする立場もあって、これまで子どもの発達障がいについては直接間接に子どもとかかわって支援を考える機会がありましたし、全国の発達支援事業所のスタッフの方たちへの研修も継続してきています。また大人のアスペルガーの方たちとのコミュニケーションについては、わりと継続して一緒にいろいろ議論して、「定型とアスペルガーの物の見方、感じ方、考え方の違い」などを明らかにしながら、それでも通じ合う可能性をどこに見出せるのかを探ってきています。

けれども今の日本で大きな問題となっている大人の長期のひきこもりの方については、これまで全くと言っていいほど触れ合う経験がありませんでした。その意味で、水越さんは私が初めて向き合い、語り合うことができた成人の引きこもりの方ということになります。

インタビューの中で水越さんが何度か「単に怠けているだけ」と周囲から見られてしまうことへの不安や悩みを語られていました。実際外側から外見だけ見れば、「なにも(しごとも)せずにひきこもっている」状態に見えます。ところが水越さんの話を聞いていくと、その「何もしていないように見える」引きこもり状態の中で、彼がどれほど大きな課題に必死で取り組み続けてきたのかということがリアルに実感されるようになりました。

 

これは私にとっては大きな経験だったと思います。少し言葉を変えて言えば、それは「内側の目(主観的な視点)」と「外側の目(”客観的”な視点)」がどういうふうに違うものなのかについて、水越さんの話からとても分かりやすく説明が可能になると思えたことです。

つまり、外側の目からみたとき、彼の内面については問題にならずに、外側から見える「行動」に注目することになるので、彼の「引きこもり」はたんに「何もしていない」ことに見えます。

ところが彼と語り合う中で、「彼の主観的な世界」が見えてきます。そうするとその「引きこもり」の中で、どれほど彼がたくさんの課題を抱え、それと必死で葛藤しながら生きてきたのか、がリアルに感じられるようになるのですね。

「何もしていない」というのはとんでもないことで、ひきこもることもなく「普通に」生きている人よりも、はるかにはるかに困難な作業に取り組み続けているということが見えてきます。これは「外側の目」からでは決して見えてこないものでしょう。

 

私も昔から生物進化の科学的研究とかは大好きで、そこで重視されてきた客観的な分析方法によって得られる様々な知見には感激してきたタイプの自然科学大好き人間です。ですから”客観的”な視点が重要であることは私にとってはあまりに当然のことです。

ところが人間というものに強い関心を持ちながら選択した心理学では、私が学生の頃はまだ非常に強かった行動主義心理学の「客観」に関する議論がありました。それを見て、人間の心を「客観的」に扱うために作られたその議論のあまりの単純さ、粗雑さに愕然とした思いがあります。そもそも「客観とは何か?(=主観とは何か)」という一番重要な基本的問題についても、ほとんどまともな議論が行われているようにはとても思えませんでした。

しかし、こういう水越さんの生き様を理解するときに、”客観的”ということばを振りかざし、乱暴に振り回すことで、当事者の内側の目が切り捨てられることになります。そうするとその人が本当に困難の中で「がんばって生きている」すがたが見えなくなってしまいます。それはとても恐ろしいことに思います。

 

この「内側の目」というのは、どうやって見えてくるかというと、基本的には相手とのコミュニケーションを通してです。その仕組みを説明するとこういうことになるでしょう。

私たちが人とコミュニケートするときには、自分自身の主観によって相手の主観(意図・気持ち)を理解しています。たとえば「机の上のお菓子、あんたたべちゃった?」と聞いたときに、相手が「たべてないよ」と答えたとして、たんにそれを物理的な現象として分析すれば「tabetenaiyo」というふうに表記できる「音」でしかありません。でも、私たちのコミュニケーションはそれだけでは成り立ちません。なぜなら相手が「たべてないよ」と言ったのは、嘘かもしれないからです。

言われたことが嘘なのかどうかということは、ひとつにはそこで語られたことが「事実」とあっているかが問題ですし、もうひとつには相手の人がそれを「自分をだます意図」で言ったかどうかによって決まります。意図がなければ「勘違い」であって「嘘」とは言いません。

ですからそもそもコミュニケーションは相手の主観的な意図の理解がなければ成り立たないのです。もちろんその理解も自分の主観によって行われるものです。つまり、主観と主観がかかわりあう中で、コミュニケーションは成立します。それ以外の形はちょっと考えにくいですね。

当然そういう主観と主観のやり取り(コミュニケーション)の中に、はじめて相手の人の「内側の目」が浮かび上がってくることになります。

ですから、外側から勝手に相手を決めつけるのではなく、お互いに生きている世界を共有し、そのうえで問題の解決を目指していくためには、「対話(コミュニケーション)」こそが最も基本的な方法なのだということにもなります(※)。

 

さて就労に関する支援について、この話から考えると、そこでも大事にしていかなければならないことは、「就労にかかわる障がい当事者の内側の目」を忘れないことでしょう。つまり外側から見て「あれもできない、これもできない」と「できないこと」を「客観的」に並べ立てることだけでは解決できない問題がそこから見えてくることになります。

実際、せっかく就労してもその後に挫折せざるを得なかった、という経験を水越さんもしているのですが、そこで彼は自分が「できていないこと」は「客観的」に十分に理解できていました。そしてそれが「できるように」必死で頑張ったのです。その頑張りは、「普通」に働いている人をはるかに上回る努力でした。その証拠に、仕事を終えて家に帰れば、彼は「コメを研ぐこともできない」くらいに疲労しきっていたのです。

ですから水越さんにとっての本当の課題は、「できないこと」を「できるようにする」という表面的な目標ではなく、「なぜそれができなくなっているのか」ということを「外側の目」と「内側の目」の両面から考えていくことだと考えられるわけです。

「外側の目」ということからいうと、水越さんがそういう葛藤を抱えられる理由の一つには、水越さんの身体の「生理的なバランス」、つまり神経伝達物質のバランスが関係しているという「客観的=生理学的な原因」の部分がおそらく否定できず、ですから、投薬によってバランスをある程度回復することによって、一定程度の状態の軽減が可能になっています。たとえば起き上がることも困難なような状態はある程度改善されるわけです。

でも水越さんが重い引きこもりを経て、少しずつ外の世界でほかの人たちとのつながりを回復していき、自分自身を見つめなおし、やがて就労への挑戦や学びでの活躍に至ったのは、「薬の効果」なのではありません。薬はあくまでその変化を支える土台の一つを提供しただけで、実際にはそれに支えられながら水越さんが自分の悩みに誠実に向き合い、考え続けてきたこと、そしてそのプロセスが周囲の支援者や同じ悩みを持つ当事者とのコミュニケーションによって支えられ、自分一人では成し遂げられなかった「(主観的な)葛藤の理解・克服」への道を一歩一歩歩んでこられたからです。

水越さん自身が語られていることですが、そこで大きな力となったのが、みんなの大学校の学長の引地達也さん(発達支援研究所客員研究員)との丁寧なコミュニケーションの積み重ねでした。そういうコミュニケーションの中でお互いの「内側の目」をかわしながら、引地さんの「内側の目」を一種の鏡のように使いながら自分自身を「内側の目」で見つめなおし、心理的な葛藤の理解を深め、それとの上手な付き合い方を発見していかれたのだと思います。そのプロセスこそが、水越さんにとっての「学び」なのだと思います。実際「学び」を軸に支援を考えられている引地さんが一番重要視されている支援の在り方がコミュニケーションそのものだと伺っています。

 

もしそうだとすれば、水越さんの努力を支えているものはご自身や周囲の人の、自分に対する「外側の目」と「内側の目」の両方だということになるでしょう。その二つの目を支援者と当事者が交し合い、理解し合うことこそが「当事者の視点」を大切にした支援の形なのだろうと思います。

 

※ ここでいう「対話」とは、しばしば誤解されるように、「おたがいにケンカしないでなかよく話し合いましょう」というようなものではなく、お互いの主観と主観を時にはおだやかに、時には緊張状態を含んで交し合うことで、お互いの関係を進展させていくことです。水越さんは引きこもりの中で、自分をめぐる他者からのいろんな評価や自分自身の自分への評価の間に激しい葛藤を経験し続けられました。そのこと自体いろいろな評価という「主観」同士の「内的な対話」の過程だと考えることができます。

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