はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.05.28

才能としての「過集中」

私は困難な問題に直面しても、基本的に「いいところ」の方により注目して、そこを伸ばすことが好きなタイプなので、「悪いところ」に注目してそこをなんとかしようと考えるタイプの方から見ると、お気楽でこまったもの、と感じられるかもしれません。今回の話もそういう「お気楽」と批判されるかもしれない内容になりそうです。

 

発達障がいの人の一部が持つ特性に「過集中」というのがあります。集中しすぎ、ということですね。綾屋紗月さんなども「過集中」状態になると、ご飯を食べるのもすっかり忘れてしまいがちというお話をされていたと思います。とくに綾屋さんの場合には「空腹」という感覚をうまく捕まえきれないところもおありなようなので、ご飯を食べ忘れがちになるのかもしれません。

ただ、発達障がいであるかどうかは別にして、何かの領域でトップレベルで活躍している人の中には「過集中」ともいえるような状態になりやすい人が結構あるようです。実際将棋の谷川浩司さんが書かれていた記事でそういう話が出てきて面白かったのですが、そのような状態を「ゾーンに入る」というような表現でも言われているようです。

たとえば一流のスポーツ選手がその状態になると、「思考や感情ばかりか周囲の景色や音が意識から消失し、圧倒的にハイレベルなパフォーマンスを発揮」したりするというんですね。その時は感覚が研ぎすまされて、野球選手であればボールがゆっくり動いて見えたり、時間感覚がゆがんだりすることがあるのだそうです。そういえば川上哲治さんだったか、「ボールが止まって見える」という話がありましたね。

また、これは必ずしもトップレベルで活躍されている天才的な方に限ったことではなく、私もADHD傾向が結構あるためか、時間感覚が失われてしまう経験はありました。お小遣いの共同研究で学会のシンポジウムを企画してやったとき、私が全体の理論的な問題などを話す役割だったと思うのですが、一生けんめい集中して一通り大事なことを話しただけのつもりが、話し終わってみると持ち時間を三倍くらい使ってしまっていて、ほとんど異次元の世界に行って帰ってきたような気持になりました(よくほかの方たちが途中で文句を言わなかったと思います。口をはさめないくらい集中していたのでしょうか (‘◇’)ゞ)。

それと、今思い出したんですが、社会心理学で有名な木下冨男先生に学部生時代に少しお世話になったことがあるのですが、質問紙調査の分析の仕方について教えていただきたくて研究室をお尋ねしたときです。机に向かって考え事をされていたんですが、部屋に入ってきた私を見て、形容がむつかしいのですが、思索の深淵の中から時間をかけて少しずつこの世に戻ってこられるような感じがあって、それから私に話しかけられたということがありました。「ああ、すごい研究者というのは、ここまで深く思索の世界に入っていくのか」と強烈な印象を持ちましたし、その思索を邪魔してしまった、ということで罪悪感があったりもしました。

この「ゾーンに入る」という表現は将棋の羽生善治さんや羽生さんや囲碁の井山裕太さんが使われたりするようですが、対局中にその極限の集中状態に入ると、たとえば羽生さんなら「時間の観念も記憶も薄いので言葉で説明するのは難しい」という状態になるようです。藤井聡太さんの言い方だと「一番集中できている時は、集中しているという実感すらないような状態になり、一分が長く感じる」ということのようで、やはり同じような状態ですね。

 

谷川さんご自身の体験では、生涯最高と自負する一手を思いついたときは、駒を打つべき場所が光って見えたと言います。いずれもすごい特別な精神状態になって、その人にとっての最高のパフォーマンスを発揮するわけです。

またまた思い出しました。事故などで死の危険に直面した瞬間、できごとがスローモーションに感じられるとか、あるいはそれまでの自分の人生がさっと思い浮かぶ、みたいな話を聞きます。死の危険に直面したときは極度に覚醒し、脳が恐ろしくフル回転し、その意味で「過集中」状態になると考えることもできますから、そういう状態ではかなり多くの方が時間感覚も含め、「異世界」に入り込むということになるのでしょう。

 

そう考えてみると、もともと人間はある条件の下では「過集中」状態になる、という力を持っているのだ、と考えられそうです。火事場の馬鹿力という言い方もありますが、本当に危機的な状態では誰もが一時的にはものすごい力を発揮することがあるように、思考などでもそういうことが起こる。危険に対処する仕組みとして考えれば、生物学的にもそういうことがあっても特に不思議には思えません。むしろ当然の事にも思えます。

そうだとすると、「過集中」が「問題のある特性」ように言われるのは、その「能力」が周囲の人に認められないような、あるいは否定的にみられるような形で出現した場合なのだ、と考えることができるのではないでしょうか。同じ「過集中」でも、それが社会的にすごいと認められる成果につながるような形で発揮されれば「天才」などとほめたたえられ、逆の場合は「障がい特性」という形で否定的にみられる。

もしそうだとすれば、「過集中」はなくすべきものではなく、うまくコントロールして、適切なタイミングで適切なパフォーマンスにつながるような形で発揮されるような工夫とか調整をすべきものなのだ、ということになります。そうすれば「障がい特性」ではなく「才能」になるわけですから。

 

まあ具体的にどうしたらそれが可能になるのか、といった実践的な経験に基づいての話ではなくて、可能性としてのひとつの考え方ですので、そのレベルでの話ですが、マイナスとされているものをむしろプラスに考える可能性をさぐる、という意味はあるのではないかと思います。ポジティヴに考えた方が元気出ますし、私自身もおっちょこちょいのADHD傾向を「才能」として見られればらくちんです(笑)。

 

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