はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.06.21

第二回逆SST:なんで当事者家族が正解を?

第二回逆SSTが昨日行われ、またたくさんの方にご参加いただきました。(zoom定員をオーバーしてyoutubeでご覧いただけなかった方には改めて動画視聴のご案内を差し上げます)

今回回答者としてご登壇いただいた方は、当事者家族の方、小学校支援級の先生、障がい児を含むすべての子どもと本を楽しむ活動をされているココロノホンダナのスタッフの方(元支援校教師)、臨床心理学を専攻されている大学院博士課程の方の四人でした。

例によって大内さんがご自分の体験から二題(うち一題は宿題)を出され、zoomの視聴者も含めてかなり活発に質問や応答などが行われながらみんなで「なぜ大内さんたち当事者はそういう振る舞いをしたのか」、その理由を考えて「正解」を探す展開でした。

宿題の方はほぼ全滅状態で、だれも「正解」にはたどり着けませんでした。むつかしい!

でも二題めではおひとり正解者が出ました。当事者家族の方です。

私はたぶんそれは偶然ではないと思うんですね。なぜか、少し考えてみたいと思います。

 

逆SSTという新しい試みの発想のもとには「発達障がいの意味を定型の目で一方的に決めつけない」という姿勢があります。たとえば「こだわり」ということば。これは定型的な目からいって「なんでそんな意味のないことを繰り返すのかわからない」という感覚が基盤にある言葉です。でもそれはあくまで「外から見た意味付け」で、実際には当事者からすればそうすることに意味があるわけです。「こだわり」という言い方はあくまでも当事者の外側の目から見た特徴づけであって、その特性を生きている当事者自身が内側から感じていることではありません。

「こだわり」ととらえる目で「支援」をしようとすると、「こだわりをなくすにはどうしたらいいか?」という発想になりがちです。その時に失われるのは、その振る舞い方の「当事者にとっての意味=価値」を理解しようとする姿勢です。

その価値を理解しようとする視線を大事にしようとする立場からは、ただそれだけでは定型社会の中でうまく生きられない困難が生ずることがあるので、それを緩和しよう、ということが支援の課題にはなります。でもそのことと「こだわりをなくすことが支援だ」という考え方は似て非なるものです。何が一番違うかというと、その振る舞いをしているその人自身の主体的な感じ方、考え方、価値観を肯定しようとする姿勢があるかないかの違いです。

そこが失われてしまうと、当事者は常に「定型になること」を求められ続け、そのために「支援」が行われることになり、ということは、当事者が自分の特性を肯定しながら生きることが否定されることになります。自分の特性は否定されるものでしかない。ひいては自分自身には価値はなく、自分でなくなることでようやく価値が付け加わるのだ、という発想になりがちになります。

ということで、発達障がい当事者に「定型的な生き方を理解させよう」という発想を切り替えて、「定型も発達障がい者の生き方(感じ方、考え方、振る舞い方の意味)を理解しよう」、というのが逆SSTなわけですが、実際にはそれは簡単なことではありません。実際今回も4人中3人は二題めもアウトでした。

しかもそのお三人は発達障がいについて何の経験も知識もない方たちではありません。むしろ支援校や支援級の教師として、あるいは臨床心理の観点から、発達障がいの方たちに真剣に向き合ってきた方たちなのです。そしてこれは私の勝手な理解ですが、みなさんそれぞれの分野で優れた活動をされてきた方たちと思えます。決して単純に定型的な考え方を当事者に押し付けようとされる方たちには見えません。そうでないからこそ、こういう逆SSTという試みに積極的に参加してくださっています。

そういう姿勢を持ったみなさんであっても、やはり理解がむつかしいんです。実際私自身にとってもいつもほんとうにむつかしいことは変わりありません。

 

それなのに、なんで当事者家族の方が正解されたのでしょうか?

ある意味では簡単だと思います。頭ではなく、体で、生活の一部としてではなく、人生として当事者に向き合い、悩み続けてこられた方だからだと思います。つまり「外側の目」ではなく、当事者と共に生きる「内側の目」からご自分のお子さんを見てこられた。その人生の蓄積が、一般的な「外側の目」によって「解説」される「障がい者像」を超える足場になったのだと思います。

日々の生活の中で発達障がいの子どもと向き合い、共に生きる道を模索し続ける中で、「外側の目」は少し客観的に距離をもって理解するうえで欠かせない力も持っています。たとえばカナータイプの自閉系の子に言葉がなかなか出てこないとき、保護者が「自分の育て方が悪いのではないか」と悩まれることは普通に起こることです。また祖父母からも「嫁の子育てが悪いから」と責められることもいまだに珍しくありません。でもそれは定型とは異なるその子の障がい特性から生まれることなのだ、と知ることによって、保護者はとても救われ、子どもとの関係にもゆとりが生まれるきっかけのひとつになります。

でも「障がい児だから」と、いわゆる「障がい認知」をしたからと言って、その子との間にそれだけでよりよい関係が作れるわけではありません。いろんな「専門的」な訓練を受けても、困難の部分的な緩和にはつながりますが、それは「支援する側」と「支援される側」という一方向的な関係の中での話です。でも共に生きるという関係は、そういう一方向的な関係ではなく、子どもは常にその関係から外れて、自分として生きていきます。だってもともと「どういう支援が必要か」ということは多くの場合「定型の目」から判断されていて、子ども自身の「当事者の目」からは判断されていないから、そこから外れた生き方をするのは当たり前でしょう。

保護者は子どもと人生を共にする中で、常にそういう「定型の目」から外れた子どもと付き合い続けなければなりません。その意味で「当事者の目」に一番近いところで悩みながら生き続けているのが当事者家族なのだということになります。

そう考えると、逆SSTという「当事者の内側の目」を理解しようとする試みの中で、唯一当事者家族の方が正解した、ということも決して単なる偶然であったとは思えなくなります。

今回の逆SSTの議論の中で語られたことの一つにも、「かかわりというのは試行錯誤」という意味の大内さんからのことばがありました。そういう試行錯誤の位置に一番近いのが当事者家族です。「外側の目」で作られた「型にはまった」見方では追いつかない人生の豊かさを子どもと共にしている人です。そこでうまれる知恵を、この逆SSTという試みの中でもさらに積み重ね、共有できたらと、そう思える第二回でした。

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