2021.07.19
療育支援=居場所という宝物の提供
昨日緘黙のことについて書いたことからも改めて思ったのですが、だれにとっても居場所ってやっぱり大事ですね。自分が安心できる場所。自分が無理せずに自分でいられる場所。
裏返して言うと、危険を避けられる場所、ということにもなるし、生物学的に考えてもそれは基本中の基本だということになります。生命の基本は身体の自己保存と自己複製ということはよく言われるかと思いますが、人間の場合はそれが心理的なレベルでも大事なことなわけです。理由はたぶん簡単なことで、人間というのは精神(心理的な働き)を通して自分の身体の働きを維持しているので、身体の保存・複製と心理的な安定は切り離せないものだからです。
発達障がいの子が陥りやすいのは、この「安心できる場所」が作られにくいという環境でしょう。あれができない、これができないと周囲から攻撃され続け、自分を認めてくれる環境が作られにくいからです。これは生物としての人間にとって「生きる」ことの基本を脅かされるような状況だと言えます。
身体の維持ということについて言えば、食べ物が足りないことは現代では少ないですし、衣服なども最低限は確保されています。身体的な安定性(ホメオスタシス)の維持ということでいえば、発達障がいだからそれが直接脅かされているということはあまりないでしょう。問題は心理的な安定が常に脅かされていることです。
じゃあなんで心理的な安定性が脅かされ続けるのか、というと、それはやっぱり人間が群れをつくって生きる動物の一種だからで、しかもその群れというものを、他の動物たちとは違って「精神(高次の心理的な活動)」の仕組みを使って「社会」を成り立たせる形で発展してきたからです。
群れで生きるためには、その一員として群れを維持する方向でふるまうことが求められることになります。「秩序」ということですね。この秩序の仕組みというものが、人間の社会では極度に発達していて、そこに「精神」が絡んでいます。わかり易いことでいえば「法律」ですね。法律は人間の精神の働きがなければ作れませんし、また理解も運用も無理です。そしてその法律が社会集団を安定して維持するために必要とされています。
逆に言えば法を破るということはその安定性を崩す行為ということで、社会的な制裁の対象となるわけです。
もっと身近なことでいえば、約束とか規則とか、常識とか良心とか道徳感情といったものも社会集団を一定の形で維持していくための働きを持っています。だからそれに違反すると何らかの形で制裁を受けますし、また場合によって集団から排除されるということが起こります。
「いじめ」というのも、そういう「社会集団の形成と維持」の働きがおかしな形で使われているものです。いじめっ子が弱い立場の子を標的にするのは、集団の中で優位に立つためと考えるとわかり易いでしょう。いじめることで自分を中心とした集団をつくり、維持しようとするわけです。シカトするとか、仲間はずれにする、物隠しをするというのは特に日本的ないじめでは重要な「制裁」の手段になっています。
………というふうに書いてくれば、発達障がいの子が心理的な安定を維持することが困難な理由もまたある程度わかり易くなるのではないでしょうか。そうですね。発達障がいの子はその子が生きている集団の中で、その集団が求める基準から外れやすく、従って集団の秩序、安定性を壊すものとして攻撃され、「制裁」の対象となりやすいからです。
そうやって攻撃の対象となる危険性を常に抱えながら、それでもなんとか生きていかなければなりません。そのためには「目には目を」で逆に自分が激しく攻撃的になるかもしれません。逆に優しいタイプの子なら、昨日の緘黙の子のように自分の中に閉じこもろうとするかもしれません。あるいはなんとか周囲との関係を調整しようとして、必死でやり取りの工夫をするかもしれません。
逆SSTを進める中でかなりはっきりしてきたことの一つは、特に自閉系の子の場合、理解しにくい定型の考え方を一生懸命理解してそれに合わせようとしながら、理解の仕方が定型とはずれていくために結果的に努力が報われず、定型から誤解されてますます状態が悪くなるケースが多いということです。
この自閉的な努力について、大内雅登さんは「実らない自助努力」と表現されました。ほんとにいい得て妙だと思います。しかも悲しいことに多くの場合、それを「努力」だということも周りが理解してくれないわけです。
発達障がいの子が攻撃の対象になりやすいのは、集団の基準から外れやすいからです。だから定型集団の中で自分を安定させている子にとっては、その子の存在が自分の足場を不安定にする原因にもなりうるので、自分を守るためにもその子に対して攻撃的になることがあります。そうやって危険な状態に置かれ続けた発達障がいの子は、何とか自分を守ろうと反撃したり、閉じこもったり、あるいは必死で対応しようと「実らない自助努力」を続けて、でもやっぱり攻撃され続ける、という状態に置かれやすくなります。
それはすべて精神的な、あるいは心理的な働きを通して行われることなので、そういう厳しい状況の中で心理的不安定が強まり、二次障がいになっていくわけですね。
そういう危険な状況に陥りやすい子だからこそ、ますます「居場所」が大事になります。厳しい環境の中で傷ついた精神を癒し、バランスを回復して元気を取り戻すことが必要なわけです。
上に書いたことは、何も発達障がいの子だけに起こることではなく、定型同士の間にだって普通に起こることです。そういう状況で苦しむ定型も、やはり傷ついた精神を癒してバランスを回復することが必要になります。ただ両者の違いは、そういう困難の発生のしやすさと、そこで傷ついたときにそれを癒してくれる環境の得られやすさにあります。定型は比較的それが得られやすく、発達障がいの子はその点で不利なのです。だから困難が生じやすく、しかも傷が深まりやすい。
じゃあどうしたらいいのか。そういう危険性をたくさん抱えざるを得ない発達障がいの子に何を提供したらいいのか。
理想的には定型中心の社会全体がそういう「変わった子」もおおらかに受け入れてその子なりの活躍の場を見つけ、肯定的な関係を作っていくことでしょう。最終的にはそのような「多様性を活かした社会」は柔軟で元気な社会となるでしょうが、ただ現在の定型の社会にはその社会の理屈があって、それで今の社会を維持しているので、その仕組みはそう簡単にパッとかわることはまずありえません。だんだん変化はしていきますが、どうしても時間がかかります。
でも、それで絶望的になる必要もありません。なぜならその子にとっての「居場所」というのは、意外と狭い小さな範囲から成り立つものだからです。社会全体が居場所になっていく必要はありません。つまり家庭であるとか、大事な友達との関係であるとか、あるいは発達障がい児の療育支援の事業所・教室など、その子の視線の範囲に自分が認められ、安心できる場所があればいいのです。そこで自分を癒し、また元気を回復していければ、それ以外の厳しい環境の中でも頑張って生きていく力が育っていきます。
極端な話、この人は自分のことをわかってくれる、自分のありのままを受け入れてくれる、自分の味方になってくれる、少なくとも自分をすぐに否定せずに見守ってくれる、と感じられる人が一人でもあれば、その子はずいぶんと救われます。そしてそのような場が持てていること、あるいは持てた体験があることは、きっとその子にとって一生の宝物になるでしょう。
今日も全国でたくさんの療育支援のスタッフの方たちが、子どもたちにそんな宝物をプレゼントしている。そう思うとちょっと希望も見えてくる気がします。
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
投稿はありません