2021.07.30
響き合う心身と響き合いにくい心身(2)
さて、前回は定型系と自閉系のコミュニケーションの中で、相手の感情理解をめぐってディスコミュニケーション状態が発生し、関係がおかしくなってしまうという例を考えてみました。そして相手の人の感情がぴんと来ない状態、感情理解のずれが起こるお互いの関係を「響き合いにくい心身」ということばで仮に表してみました。
今回はこの「響き合う(合わない)心身」ということと、感情理解の仕組みをもう少し考えてみたいと思っています。
その際、改めて「他者の感情を理解するってどういうことなの?そもそもそんなこと可能なの?」という哲学的な問題が絡んでくるのですが、この点について廣松渉という哲学者が面白い見方をしていますので、それを説明するところから始めてみましょう。
彼は「共感的な他者感情理解」の基本の仕組みを二台のピアノが共鳴するという話で喩えています。図で説明してみましょう。
二台のピアノが並んでいます。それでそのうちの①左側のピアノ(A)の鍵盤をたたいてみましょう。そうすると②Aの弦が叩かれて振動します。次にこの弦の振動が③空気に伝わって空気を振動させます。そしてその空気の振動が④右側のピアノ(B)の弦を振動させます。そうやってBの弦が震えると、それがまた⑤空気を振動させ、Aにも伝わります。
最初は①のようにAの鍵盤をたたくというところから始まって、その結果Bの弦も震えだし、その場の空気も一緒に震えているという状態が生まれるわけですね。つまりその二台のピアノがある空間全体が同じように震えていることになります。つまり共鳴状態になっています。その空気の震えが私たちの耳の鼓膜を振動させると、私たちは音を感じることになります。
さて、ここでちょっと禅問答みたいな話ですが、こんな状態で二台のピアノが共鳴しているとき、そこで鳴っている音はどちらのピアノの音なんでしょう?そう考えると、最初の原因はAだとしても、この共鳴状態では二台とも同じ音を出しているわけですよね。もちろんそれぞれのピアノの個性もあるので、完全に同じ音ではないでしょうが、まあ一体化した音の状態ともいえるでしょう。
これは何の比喩かというと、二台のピアノが二人の人のことです。そして最初に音が鳴りだした方がある感情を抱いた方で、その感情が表情や姿勢などで相手に伝わる状態が空気の振動です。それによって相手の感情も同じように揺れ動くとき、二人の感情は響き合い、共感的な状態が生まれる、ということになります。
なんか変なたとえに聞こえるかもしれませんが、こんなふうに一人の人の感情状態がほかの人に伝播して、相手の感情を揺り動かすというのは実際に普通に起こっていますよね。発達のごく最初の時期、つまり生まれたばかりの新生児でも「共泣き(co-cryng)」という面白い現象が見られます。新生児室の一人の新生児が泣き出すと、それにつられるようにほかの新生児たちも泣き出すような現象です。
また、これも乳児で見られることですが、あかちゃんを抱いて向き合ってじっと見つめ、赤ちゃんと呼吸を合わせるかのようにゆっくり舌を出し入れすると、やがて赤ちゃんの口がもぞもぞし始め、その舌がのぞき始めるという、舌だし模倣と呼ばれる行動も確認されます。
幼児がことばを獲得する少し前、平均して9か月ごろに「三項関係(あるいは共同注視)」というのが見られるようになりますが、これはたとえばお母さんと見つめ合っていて、お母さんがふと違う方向を見ると、赤ちゃんもそれにつられて同じ方向を見るといった現象です。大人でも話している人がふと違う方を見ると、無意識で自分もそちらを見たりしますが、同じ仕組みでしょう。
模倣という行動もそうですね。これも発達の中で大事な意味を持っていますが、相手の動きに赤ちゃんの動きが同期してしまう現象の一つで、それがだんだん目の前の相手の動き(即時模倣)ではなく、過去の動きの記憶によって引き起こされる「延滞模倣」という形に進んでいくことで、言葉の力の前提である表象という能力が獲得されることになります。
もちろんそういうのは子どもに限りません。大人でも相手の体の動きにつられて無意識に自分の体が動いていることもあります。よく言われるのが、たとえばカウンセリングなどでお互いに気持ちが共有されるような状態になっていくと、呼吸のリズムや身体の揺れも一緒になったりします。「あの人とは息が合う」ということばがありますが、まさにその状態ですね。「波長が合う」という言い方もあります。まさに「響き合いやすい関係」です。
スポーツを見ていて没頭すると、応援している選手の動きに合わせるかのように、選手が力を入れるところと同じ自分の体の場所に思わず力が入ったり、似たような姿勢になったりすることもあります。
そんなふうに私たちの体は、相手の人の体の動きに知らず知らずにつられて同じような動きをしたり、あるいは相手の人の感情表出に影響されて、同じような感情を抱いたする、という仕組みが自然に備わっています。身体の動きが同期するとか、感情状態が共鳴するということが普通に起こるわけです。しかも全然頭で考えて合わせているのではなく、無意識に自然に起こってしまい、逆に言うと我に返って意識しないとそれを抑えることもできなかったりします。
人間の場合は上のピアノの共鳴の例よりもはるかに複雑な仕組みによって共振が起こるわけですが、人はそうやって無意識に響き合う身体を生まれながらに持って生きているわけですね。そしてもちろんそれは人間だけではなく、他の動物でも意味あるやり取りができるのは、そういう動作の同期とか、共鳴とか、共振といった仕組みが備わっているからということになります。
それらの無意識的に同じような状態になったり同じような行動をとる形のほかにも、相手の行動を補うような行動が無意識に引き出されてやりとりが成立するような仕組みもあります。さらに複雑な形のやりとりが、人間社会の役割行動なわけですが、その土台となるものと考えられます。
たとえば鶴の結婚のダンスもそうです。あれはIRM(生得的解発機構)という反射の仕組みがあって、相手の振る舞いを見ると、それが刺激になって次の振る舞いが自動的に起こり、今度はその振る舞いが刺激になって元の鶴の次の振る舞いが自動的に起こる、といった遺伝的に決められた行動のパターンをお互いに引き起こしあって成り立ちます。
ある海鳥が餌を待っているひなの中の、一番おなかがすいているひなから順番にエサをやるのも同じ仕組みです。
また人間の話に戻ると、そういう「お互いに刺激し合ってやりとりがうまく成り立つ」例の感動的なものの一つに、赤ちゃんの授乳があります。赤ちゃんがおなかがすいてそれが刺激となって泣き始める。そうするとそれを聞いたお母さんのおっぱいに血液が集まり始めます。母乳は血液から作られますので、その準備状態になるのですね。そして赤ちゃんはルーチン反射・吸てつ反射といった複数の反射的な行動(※)が組み合わさって赤ちゃんがお乳を吸い始め、それが刺激となってお母さんが母乳を分泌し始め、そして赤ちゃんが口にたまった母乳を刺激として嚥下反射を起こし、その母乳を胃に届けることになります。
そういう仕組みが生まれながらに備わっているので、お母さんが赤ちゃんに母乳を与え、それを赤ちゃんが飲むという、生存にとって欠かすことのできないやりとりが成立するわけです。これも響き合う心身の仕組みと言えるでしょう。
とりあえず関連する例はそのくらいにしておきますが、私たちが他の人の感情を理解できるのも、この生まれながらの仕組みがあるからと考えられます。そんなふうに相手の人が泣いたり笑ったりといった感情の表出をすると、それに響き合う心身の仕組みがあって、自分もにたような状態になる。それを感じ取ることで相手に「共感した」状態になるわけです。その時、自分が感じている感情がつまりは相手が今抱いている感情と同じものだということになります。
ということで、二台のピアノが鳴って作っているその部屋の空気の振動によって私たちが音を聞くように、私とあなたの感情状態が共鳴して一体化している状態が成立して、その一体化した自他の状態を「喜びの感情」とか「悲しみの感情」「怒りの感情」などとして理解するということが起こり、ではそれは誰の感情なんだろう、と頭で考えると、「原因」は相手の人にあると思えるので、「これはもともとあの人の感情状態で、私はそれに共感したんだ」と理解されることになる、という理屈になります。(※※)
さて、もしそういう形で相手の感情を理解することが基本なのだとすると、生まれながらに備わったその感情の共振の仕組みにずれがある場合、つまり響き合いにくい心身を持つ人同士の間では、相手の感情がぴんと来ない、ということが起こりやすくなるでしょう。
そしてまさに定型と自閉の間で、そういうことが起こっているのだと考えてみると、いろいろなことが説明しやすくなります。次回はそれについて書いてみたいと思います。
※ 反射的な行動というのは経験によって学ぶ必要がなく、生まれながらに持っている行動のパターンで、ある刺激が与えられると自動的にそれに対応した行動が生じるようなものです。ルーチン反射は赤ちゃんの唇の近くに何かが触れると、そちらを向くように首が回る反射、吸てつ反射は口の中に何かが入るとちゅぱちゅぱと吸い始める反射、嚥下反射は口の中に液体がたまると飲み込む反射です。生きるためには生まれてすぐにできなければならない行動は、経験を通して学ぶ必要がないように、こういう反射の仕組みが基礎となっています。また、現在は実質的に意味を失っているけれども、進化の途上で意味があったものの名残とも考えられる反射もあり、たとえば原始歩行反射は新生児のわきの下をもって体を支えながら両足を地面につけ、その状態で体を前に傾けると、どちらかの足が前に出てきて、さらに前方に傾けると今度は反対の足が前に出て、あたかも「歩いている」ような振る舞いをするものです。通常はこれらの反射は数か月程度で消失し、そのあとは意識的にコントロールする行動へと順次切り替わって、より複雑な心理的行動を生み出していきます。
※※ 他者感情理解についての考え方のもう一つの形は、共感ではなくて「推理」によるものだという考え方です。前提になるのは「私とあなたは別の人間なんだから、相手の感情を直接体験することは不可能だ」という考え方です。そうすると、自分には体験できないはずの相手の感情を理解するのは、「こういう表情だからこういう感情に違いない」などと、ある意味知的に頭で推理しているんだというわけですね。ただ、こういう感情理解の仕方は私たちの素朴な体験から見るとちょっと不自然に感じられないでしょうか。
たとえば相手の人の話を聞いていてその気持ちがよくわかる気持ちになり、一緒に涙を流したりすることがあるでしょう。こういうのは知的な分析推理による理解を超えて、情動的に相手の人と自分が一体化した状態がまずは作られると考えた方が自然です。それは「話す=聞く」というやり取りを通して、お互いの感情が共振を起こしている状態と考えられます。その共振的な状態こそが、相手の感情をリアルに理解できる状態ということになります。そしてその状態を少し客観的に言葉に直して説明すると、「あなたの感情を私が理解した」という言い方で表されるわけですが、その根っこは「共振状態」にあるのだと考えた方が自然です。
もちろん共感はできないけど、「怒っているのはわかった」という場合もあり得ます。そしてなんで怒っているのか、いろいろ頭で考えることで、「○○があるとあの人は怒るんだ」という形でその怒りの仕組みを、共感はできないままに客観的に理解できることもあります。特に文化が絡むような複雑な感情の動きなどになると、そういう形でしかなかなか理解しにくいこともあります。けれどもそういう場合であっても、一番の出発点である相手が「怒っている」ということはわかったわけです。なぜ怒っているのがわかったかというと、その怒りの振る舞いがこちらの心身を震わせることで、一種の共感状態(あるいはお互いの情動の連動状態)が生まれたために、「私の怒り(や恐怖など)」と「相手の怒り」がつながって理解可能になったと考えられるでしょう。ですからやはり基盤は「知的な推理」ではなく、「感情状態の共有=共振」だと考えた方が素直だろうということになります。
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