2021.08.15
シン・エヴァンゲリオンの世界
エヴァンゲリオンの劇場版完結編が今公開されています。
いろんな読み方が可能な映画で、作者の庵野さん自身にもあらかじめ答えがあって作っているのではないということが、NHKのドキュメンタリー「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」でも繰り返し語られているようでした。「こうではない」ということはわかるが、「こうだ」とはわからない。
研究で新しいものを生み出そうとしているときにも同じことが起こります。「これは違う!」ということがわかる。でも「こうだ!」ということばを紡ぎだすのは本当にむつかしいのです。庵野さんもドキュメンタリーの中で見つからない方向性にみんなが困る中で、「まだ、神が降りてこないんだ」という意味のことを話すところがあります。これも私なりによくわかります。
いい加減に人から教わってまねて覚えたことではなく、本当に自分なりに納得のいく答えがえられるとき、それは自分が計算して発見するのではなく、苦しみぬいた先に「向こうから降りてくる」感じになるんですね。その「答え」が降りてくるのを待てなければ、良いものは決して生まれない。
エヴァくらいの大きな作品の場合、簡単な読み解きで何かが語れる世界とは遠いでしょう。「作品の完成」という形では庵野さんにとって何かが「降りてきた」ことはたぶん間違いないことです。でもそれが何を意味するのかの読み解きはまた別のことです。作者自身にとってもそれを見る人にとってもそれは同じでしょう。誰にとっても繰り返し新しい「答え」が生まれ続けるでしょう。
そういうことを前提として、たんに今の時点で私の体験から感じられたひとつの「答え」にすぎないのですがとても印象に残ったことがあります。
このアニメの最後の30分ほどで、主人公シンジが父親と対峙する長いシーンがあります。そのシーンはこの作品が持つ複雑な全体について、比較的まだわかりやすい謎解きともなっています(※)。そしてそのシーンの中で父親とシンジのやりとりで語られる世界が、私の中でアスペルガーの人との間に体験し、そこから伝わってくる世界にとても親和性があると感じられたのですね。
伝わらない思い、かかわりへの不安や恐怖、安心できる世界への没頭、そこにかくされた寂しさ、そして悲しみ。その世界を父から背負わされたシンジがそれを乗り越えようとしてつかみ取っていくひとつひとつのこと。
その私の感覚が、どこまで本当にアスペルガー系の人たちの世界につながっているかは何とも言えません。単にこれもまた定型的な勝手な思い込みなのかもしれません。微妙に、あるいは大きくずれているかもしれないし、それこそ「違う!」という強い否定になるのかもしれません。ただ、まったくずれているにせよ、部分的につながっているにせよ、そこを語り合うことで、またひとつ自閉的な世界を生きる方たちの理解にどこかでつながるかもしれないと、そんな気がしました。
孤独に生きる人が、何に悲しみ、何を怒り、何を拒み、そして何を求めているのか。そのことを考えるうえで、たぶん普遍的な話につながっているような、そんな気になる最後のまとめ方として私には感じられました。
※ということは、そのわかり易さは十分な答えではないという可能性を十分に含んでもいるのでしょう。ドキュメンタリーの中で庵野さんがスタッフに語っていたことの一つに、自分の脚本が(たぶんスタッフに)ここまで理解されないとは思わなかったという意味の言葉がありました。ただし、だからスタッフが悪いというのではなく、理解されるようなものをつくれていないんだと彼は言って、最初から書き直す必要を感じるとも言います。彼の中では表現したいことがある。だがそれをどう表現していいのかわからない。どう表現したら人に伝わるのかがわからない。
その葛藤の過程がこの作品を作っていくことの大きな原動力であり、そしてその葛藤状態にスタッフを巻き込んでともに創り出されたのがこの作品なのでしょう。庵野さんはドキュメンタリーの中で繰り返しNHKのスタッフに対し、自分を撮影しても意味がない、ということを言います。そうではなくスタッフの困惑、スタッフ(と)の葛藤を撮ることが必要だと。そこにこの作品の本質があると、そういう表現で庵野さん自身が語っているように思えます。
作品全体も難解で謎に満ちていると言われます。でもそもそも世界はそうなのです。自分が理解できないことが世界で起こっている。その中で自分に理解できる部分だけを拾って自分の世界観をつくり、その中でなんとか小さな「安心」を得て生きている。それが通常の生き方だとすると、庵野さんはそういう「安心」から引きはがされた世界に生きてきた人なのでしょう。だから「理解できる」物語を描くことに意味はない。いや、それは世界を描いていないこと、単なるうその世界になる。安易に「わかる」ことを拒否し、常に新しい見方を求め続け、その運動の中に人々を巻き込んでしかも共同した作品に結実させていく。わからないけれど何かが伝わる世界。わからないけれど引き込まれる世界。
定型世界の中で、定型的な「わかる」物語への違和感に悩み続けるアスペルガーの人達の葛藤状態が、やはりこの物語の中にとても親和的なものとして描かれてあるように、私には感じられるのですが、それはこういうことなのかもしれません。
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